鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
78/592

(15) 『絵入俳書とその画家たちJ財団法人柿衛文庫、1992年。雲英末雄『俳書の世界日本書誌学大跡がしのばれる。谷文晃を介して渡辺岩山が「椿図」を見た可能性は充分に考えられる。同「二条家内々御番所日次記J慶応義塾大学蔵。神通せつ子「光琳関係資料二候家御番所日次記抄録一」『大和丈華j33号、1960年同大槻幹郎「乾山の直指庵独照参禅について新資料と那波古峰に関連して」『仏教芸術H7号、1970年同寛永寺の規模は当時巨大でー寺院の寺領としては桁外れの待遇が幕府によって確保されている(『寛永寺』東叡山寛永寺、1993年)。親王自身は「桂舟jと号して絵画制作をしており、詩歌・囲碁・茶道を噌み大きな文化サロンを築いていたことが予測される(広谷錦堂「乾山を繰る人々一・二J『古美術J147・148号、1943年)。系84j青裳堂書店、1999年。加藤定彦『俳誌の近世史』若草書房、1998年。(16)加藤定彦等編『関東俳諾叢書第17巻絵俳書編IJ青裳堂書店、1998年(17)光琳については「光琳絵京尾形光琳は呉服所也。衣類器物に近年此風を書」と定義している。光琳画の本質とは違う「光琳模様Jという型にはまりデザイン化された様式が普及していたことは、乾山が装飾的画法とかけ離れた描写で絵画を制作するに至った動機と関連する可能性も指摘できる。同(注1)前掲西本氏論文(「尾形乾山筆「定家詠十二ヶ月花鳥図」について」『国華』1043号、1981年)参照。68

元のページ  ../index.html#78

このブックを見る