鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑧佐藤朝山と宮彫一一明治大正の伝統木彫の「近代」一一研究者:福島県立美術館学芸員増淵鏡子はじめに日本の彫刻史は、奈良時代を頂点とした仏像彫刻が、鎌倉時代半ばで衰退し、長い空白の後に、荻原守衛、高村光太郎のロダン紹介をもって近代彫刻が誕生する、という文脈の中で考えられてきた(注1)。明治時代以降、岡倉天心などによってつくられた美術史観のもと、彫刻史は中世までの仏像の修復・保存と並行される構造、史料、図像の研究が主なものであった。そしてロダンが紹介されて以後の彫刻については、日本の彫刻家がいかに構造、量感、動勢という西洋の彫刻理論を受容したかに関心が払われてきた。しかし近年、室町、江戸時代の仏像などの調査が進み、また近代では高村光雲、新海竹太郎などロダン紹介以前の作家の見直しも行われ、彫刻の「空白」期間が少しずつ埋められようとしている。室町・江戸時代というのは、それまで一部の特権階級のものであった仏像が、庶民の需要に応えて大量に制作された時代である。そして壮大な建築を埋め尽くすように装飾した桃山時代の宮彫彫刻は、江戸時代に入ってさらに新しい展開を見せた。その技術は地域に根付き、欄聞や仏壇によって庶民の生活空間を飾り、だんじり彫刻など祭りのモニュメントに発展した。また、根付や替などの細工文化を生み出したのも宮彫が素地となっている。この江戸時代の彫刻技術が明治時代にひきつがれて近代彫刻の母胎となる。佐藤朝山(明治21(1888) 昭和38(1963)) (昭和23年(1948)からは玄々と号す)は、福島県相馬市の宮彫師の家に生まれ、18歳で上京して山崎朝雲に入門、以後日本美術院を中心に活動した彫刻家である。佐藤は明治以前の木彫様式を色濃くその作風に残しつつ、パリでブールデルに師事してロダン直系の彫刻理論を学び、実践した異色の作家である。筆者はこれまでに佐藤の研究を通じ、伝統木彫、特に宮彫彫刻が彼の活動と密接な関係にあることを確認している(注2)。本研究では、佐藤ととくに関係の深い、山形市と滋賀県米原町上丹生の2か所の木彫産地を取り上げ、史料および作品の調査、また現在の木彫職人からの聞き取りを行った。その結果、江戸後期から昭和戦後に至るまでの興味深い史料や作品が確認された。それらの中で、佐藤朝山、近代彫刻を考える手がかりになると思われるものについて紹介し、近代彫刻の母胎としての伝統木彫の技術・様式・徒弟制度、またその展開を考えていくのが本稿の目的である。71

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