鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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団I」を置き、その漆器の木地としての木挽き業が並行して発達した。山形は最上川を1.山形〜星野家文書佐藤朝山は本名を清蔵といい、相馬市の宮彫師の家に生まれた。佐藤自身による履歴書によれば、祖父・佐藤常治は山形市三日町の宮彫師の棟梁であり、その家柄は代々「星野弥左衛門」と称して苗字帯万を許されていたという(注3)。明治14年(1881)、相馬に大火があり、焼失した光善寺の堂宇を再建するために常治が山形から呼ばれ、そのまま移住した。常治は娘婿・清五郎を養子に取り、後継者とした。清五郎がj青蔵の父であり、清蔵は幼年時から職人の父と、やはり同業の伯父・治衛門に木彫の手ほどきを受けた。相馬・光善寺の本堂建築〔図1〕には、祖父・常治による獅子の彫刻が遣されている。伝統的な様式ながらも形骸化していない迫力のあるもので、常治の木彫技術の高さを示している。後に朝山が自らを振り返り、18歳で上京した当時、東京美術学校で学ぶことを考えたが、教師の技術が自分より劣っていたためにそうしなかったと後に語っている(注4)。実際にそこまでの腕前であったかどうかは別として、すでに郷里で相当の技術を身につけていたことを物語る逸話である。佐藤家の出身である山形市は、古くから木彫が盛んな土地である。まず豊富な漆樹によって漆工芸が発達し、桃山時代には最上義光が山形城下町に職人町である「塗師経由して日本海を通じ、上方と人や物資の往来が盛んな土地柄でもあり、元禄以降、紅花取引がさかんになるに従って多くの仏師や宮大工も交流するようになったという(注5)。山形市の近郊には、立石寺、寒河江慈恩寺など、平安時代の創建になる大寺院があり、彫刻の需要も多かったと思われる。佐藤の履歴書にある、山形市で数代に渡り宮彫を営む「星野弥左衛門Jとはいかなる人物だ、ったのであろうか。今回山形での佐藤の祖父・佐藤常治の事跡と、星野という人物について調査したが、残念ながら確認できなかった。しかし、代わりに、星野吉兵衛という、山形の木彫の歴史を考える上で重要な職人について多くの資料を得ることができた。宮彫は江戸時代も後半になると、大寺院の注文による堂宇の彫刻から、個人向けの仏壇、欄間へとその需要が移ってくる。そうした仏壇職人のなかで、山形で中心的な役割を果たしたのが星野吉兵衛である。初代星野吉兵衛(享保6(1721)ー安永6(1777)) は市内十日町に住む木彫職人で、腕の良い欄聞や神輿の制作者として知られた。その後星野家は代々吉兵衛を名乗って仏壇制作を中心とする木彫工房を営むとともに、仏壇に関わる木地師、塗師、箔師などの職人を統べる問屋の役割も果たすようになる。-72-

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