東北地方ではまだ珍しかった仏壇を各地に普及させ、山形の主要な産業のひとつに育て上げたのは星野家であった。山形で星野を名乗る彫刻の家は吉兵衛家のみであり、星野家には分家がないため、佐藤のいう「棟梁・星野弥左衛門」は存在が認められず、おそらくはこの吉兵衛を指すと思われる。ただし血縁関係があるかどうかは疑問で、星野家と佐藤家のつながりを示すのは、『星野家系図』に明治時代、三日町の佐藤家と婚姻関係を結んだとあるのが、唯一の可能性である。考えられることとして、佐藤家は星野家に遠いつながりのある家系であったか、もしくは星野家に出入りする職人であったかであろう。山形で突出した彫刻の名門である星野家の名前は、相馬に移住した佐藤家にとって、自らの系譜をたどる意味で重要であったと思われる。佐藤との関わりはさておき、現在、星野家には、文化年聞から大正時代に至る注文控え『細工請取帳』〔図2〕や、文化から明治にかけての徒弟の契約書『寓歳帳』〔図3〕、明治45年からの職人への支払い記録『職人渡方帳』などの文書が多数遣されており、この時期の仏壇、木彫の貴重な史料となっている。この『細工請取帳』『寓歳帳』、後藤嘉ーによる解説、および聞き取り調査をもとに、星野家が事業を拡大していった文政11年(1828)という年を例に挙げ、当時の星野家がどのような体制でイ士事を行っていたのか、読みとってみる(注6)。文政11年当時、二代目星野吉兵衛(広林)(明和4(1767)一天保5(1834))が61歳。二代目は本名を又吉といい、初代吉兵衛の次男である。又吉は父親がそうであったように江戸の浅草の工匠、後藤茂右衛門に師事した経験をもっ、腕の良い職人であった〔図4〕。代替わりの時期で、当主は婿養子・3代目吉兵衛・助次郎32歳(寛政8(1796)ー慶応1(1865))であったかもしれない。三代目は絵もよくし、地元の南画家に指導を受けていた。星野屋は山形ーの繁華街、十日町に住居、細工場、蔵を構えていた。職人衆を何人も工房で雇っており、住込の徒弟は、天童出身の喜惣治24歳を筆頭に、前年弟子入りした市内谷地出身の喜吉15歳まで、6人を抱える。その他、通いの弟子も5人いる。徒弟は原則として「十五才より年季相申候事」「年季之義ハ八ヶ年也但シ壱年手伝都合九ヶ年相定申候事」(高歳帳)、つまり15歳から8年間の年季をつとめ、その後1年間お札奉公をする。入門時に渡される道具は「弟子道具相渡定書J(寓歳帳)にあるように鋸3枚、鈍3枚、撃7丁、丸撃2丁、小万l本などと定められている。-73-
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