衣料代は年2回支給し、最初の4年聞がそれぞれ三分、後の5年聞が一両である。ただし、7年目の暮れに羽織り代として一分、8年目の夏にも羽織代として一分が支給される。徒弟の休日は1か月につき1日あるいは2日で、正月は10日まで帰省できる。日常生活は厳しく規定され、「一、細工道無油断相励可申事J、「一、御家内ハ不申及職人衆にも過言不礼無之様可致候」、「一、夜遊一向不相成趣堅可心得事J、「一、夜絵図修行可致事」(寓歳帳)、つまり、木彫の修行に励むこと、家人や職人衆に無礼のないこと、夜は夜遊ぴせずに絵図の修行をすることなどが心得として挙げられている。しかし中には不真面目な弟子もおり、衣料代などの前借りを繰り返し、ついには駆け落ちした三日町出身の長蔵のような者もあった。星野屋には奥州一円からから注文が寄せられる。丈政11年には1月から8月の盆前まで、仏壇13件、前机6件、寺須弥壇3件などの注文があった。特にこの年は米沢からの注文が多く、仏壇など7件。遠方では福島三春の光善寺で幅5尺の須弥壇の注文、宮城気仙沼の吉山甚作より幅3尺1すの仏壇の注文があった。この気仙沼の仏壇の仕様は「わく戸ひらためぬり、戸ひら金く真鏡、しょうしふちくろ、子白檀、金く真鍛、二十四孝、向のし立はく、宮殿六本、わき白たんJ(細工請取書)である。つまり脇戸が平溜塗り、扉の金具は真鏡、障子の桟は白檀で縁は黒、金具は真鏡、欄間は二十四孝の図、宮殿部の柱は6本、脇戸は白檀という豪華なものである。漆塗りや金具、金箔は専門の職人にそれぞれ外注することになる。星野屋はこの三代目の文政〜天保年間(1818-1843)ころが最も栄えていたと言われ、文書からはその大規模な工房の様子が伺える。星野屋の商圏は広く、山形だけでなく、仙台、秋田、福島から仏壇、寺院の彫刻の注文を受けており、寺院などでは何代にも渡って彫刻を注文する、大口の顧客も存在する。山形が東北地方における職人の拠点として、東北一帯の仏壇、彫刻の需要に応えていたことを伺わせる。佐藤朝山の祖父・常治が明治14年に福島県相馬から請われて寺院の再建にあたったという経過も、山形から東北各地への技術の伝播を物語っている。星野家文書に記される徒弟制度については、現在の山形仏壇の彫刻師からの聞き取りによれば(注7)、昭和戦前までほぼ同様の形式がとられていたという。また、高村光雲の江戸仏師修行を語った『光雲懐古談』(注8)、高村光太郎の光雲門についての回想『回想録J(注9)、富永朝堂による山崎朝雲門の追想『彫心澄明一富永朝堂聞書』(注10)、佐藤の弟子・宮本理三郎の聞き取り(注11)などと比べても、共通するとこ74
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