(1854-1859)に活躍した二代目上田勇助、明治時代に活躍した森秀松など、名匠を多ろが多い。また、入門時に支給される道具についても、例えば大正15年(1926)出版の木村五郎の『木彫の技法j(注12)に挙げられている道具と多くが共通しているのが興味深い。昭和戦前期までに修行した木彫家は、江戸も山形も、宮彫師も芸術家も、徒弟制度によるほとんど江戸時代とほぼ同様の教育を受けていたと思われる。以上のように、山形の伝統彫刻は長い歴史と伝統を持ち、明治にまでそれが引き継がれていたことが分かった。山形から新海竹太郎、竹蔵、石川確二、桜井祐ーといった彫刻家が多く輩出している点も、そうした地域性によるものであろう。特に、新海竹太郎は山形市十日町の仏師の家からでた彫刻家で、新海家は星野家とも関係が深い。前出の星野家文書にも、竹太郎の父・宗松に対する仏像制作への支払い記録が遣されているのを確認した。なお、山形と新海については、田中修二氏によって詳細な研究がされている(注13)。2.上丹生〜「天女像」周辺佐藤朝山は、昭和35年(1960)、三越日本橋本店のためのモニユメント「天女像j〔図5〕を完成した。(当時は玄々という号を使用してるが、混乱を避けるために本文中では朝山と記す)「天女像jは台座、光背を含めた像高は10メートルを超える大作であり、巨額な制作費と10年の歳月を費やした、佐藤の戦後の代表作である。等身ほどの天女を巨大な雲が取り巻き、全面には合成樹脂絵の具による彩色、載金が施されたこの像は、完成当初からその著しい装飾性に対するとまどいの声が聞かれ、現在でも定まった評価を受けていない。筆者は、これまでの調査により、「天女像jにかかわった助手の多くが伝統彫刻を引き継ぐ職人であり、中でも滋賀県上丹生出身の宮彫系職人がまとまった形で参加していることを確認した(注14)。「天女像」には、台座に制作にかかわった者の記名があり、十年間のうちには職人の出入りがあるために必ずしも全員の名前ではないが、彫刻担当者では助手として24名が挙げられている。そのうち津田四郎、酒井源三、森万蔵、上由美次、吉田育造、上田俊一、泉亮明、十場裕次郎、加納三造の9名が上丹生出身者である。滋賀県米原町上丹生は、米原駅からlOkm東に位置する山村の集落である。古くから林業を主業とした土地柄であったのが、文化12年(1814)、大工の上田勇助、川口七右衛門が京都で宮彫の技術を身につけて帰郷し、以来木彫が盛んになった。安政年間く生み出して、現在に至るまで寺社彫刻や仏壇の需要に応えている。現在でも60軒ほ-75-
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