どの集落のうち、25軒が木彫に従事する全国でも珍しい「木彫の里」である。宮彫彫刻は江戸後期から仏壇の需要が主になるため、多くの場合産地には木地、宮殿、彫刻、鋳金具、漆塗、金箔押、蒔絵、といういわゆる仏壇七職の職人を地域内に揃えているのに対し、上丹生では一部仏壇の彫金や漆塗りを行うものの、彫刻と木地が中心であり、彫刻の部品として近隣の彦根仏壇、長浜仏壇からの注文に応じるという形を取る(注15)。他の地域に比べて木彫だけが独立して発展した土地柄のためか、上丹生の木彫は祭り屋台、焼き杉細工、能彫といった作例も多く見られる。仏壇以外の木彫で代表的なのが、祭礼に曳行されるだんじり(地車、壇尻)屋台の彫刻である。元々長浜地方には、江戸時代以前に祭りの曳山が制作されており、それが長浜仏壇、彦根仏壇につながったとも言われ、この地域における宮彫と祭り屋台の関係は案外早い。ただし、現在上丹生で請け負っているのは大阪を中心とした屋台である。彫刻を伴う祭り屋台の例は全国に多いが、南大阪から姫路にかけてのだんじりと呼ばれる屋台は、全面を覆い尽くすように施された白木の木彫で有名である〔図6〕。現役のだんじり屋台は大阪府だけで650台を超え、中には江戸時代のものも含まれ、また現在でも着々と新造されている。幕末から明治にかけて特に多く制作されたこのだんじりは、宮彫の近代に於けるー展開とも見ることができょう。上丹生のみならず、大阪一円、姫路にもだんじり屋台を制作する木彫の工房は多い。佐藤朝山の弟子の一人、野村正(明治42(1909)一平成2(1990))も姫路のだんじり彫刻の職人出身である〔図7〕。また、上丹生の戦前戦後の彫師は、近代彫刻を視野に入れた制作を多く行っている(注16)。上丹生出身で仏壇修行をした森大造(明治33(1900) 昭和63(1988))は、東京美術学校に進み、日展作家として活躍した〔図8〕。森は佐藤とも交流があり、「天女像」制作に当たって上丹生職人たちを紹介したと思われる人物である。「天女像」の助手の一人である酒井源造(大正8(1919) 平成5(1993))はその後創型会に出品するなど、作家としての活動も並行している〔図9〕。京都での修行経験をもっ森秀男(明治34(1901)一昭和28(1953))は、伝統様式を離れた、洗練された浮き彫りなども遣している〔図10〕。これらの作例は昭和、宮彫彫刻師にとっても、芸術と呼ばれる近代彫刻の影響が大きかったこと、またそれに対応できるだけの力量をもっていたことを示している。宮彫は共通して雲、波、花、瑞祥文、獅子、虎、龍などを細かく彫りあげた、桃山時代からの様式を継承する彫刻である。仏壇の場合は天人、龍、瑞花など仏教、あるいは二十四孝のように中国の説話に題材をとったものが多い〔図11〕。それに対しだん76 -
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