鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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じりは、軍記物などの一場面を彫ったものも多く、芝居の一場面を見るような、より一歩庶民的な彫刻になっている〔図7〕。彫刻の一枚一枚は浮き彫りから成り、前景、後景が層をなして重なり、芝居の書き割りのような構造となっており、それが仏壇やだんじりの各部分に組み上げられる。仏壇も、だんじりも、細部彫刻の集積によってモニユメントとしても成立しているという点では、西洋の彫刻とは異なる空間性を備えているともいえよう。佐藤の「天女像」でも、平面的な彩雲を何層にも重ねて立体にした表現は、宮彫の様式を意識していると思われる。上丹生の職人たちを「天女像」に採用した佐藤の意図としては、「桃山装飾彫刻を現代及び将来に、現代的に於て復活jするところにあったことが、佐藤の書簡にあらわれる(注17)。桃山の技を継承する職人を採用し、その様式をそのまま作品に用いたわけである。全国的に、第二次世界大戦の戦中戦後、木彫職人は苦境にあった。仏壇の注文はほとんど皆無で、山形などでは徴兵で職人が激減し、上丹生でも職人は炭焼きで生活を立てていた。三越「天女像」の話が持ち上がったのが昭和26年(1951)で、10年を要した大事業であったことを考えれば、職人にとっても貴重な仕事であったと思われる。戦後佐藤が「天女像」によって宮彫彫刻への回帰を見せたのは、伝統技術が失われることに対する警鐘の意味もあったのかもしれない。まとめ以上、山形と上丹生という佐藤朝山にゆかりのある伝統木彫産地についてそのなりたちと作例、職人のすがたなどについて見てきた。職人の世界では、特定の所にまとまって居住することはよく見られるが、特に木彫では地域における集中度が高い。仏壇・欄間・祭り屋台は、日常生活で使用するものでなく、需要が限定されること、いくつもの工程を必要とする規模の大きい商品であるために、家内工業的な生産では完結しないことがその原因であろう。職人からの聞き取りによれば、彫刻の工程の中で、木取り、粗彫りを弟子が行い、仕上げを師匠が行うという工房制作が行われることも多いようである。また、宮彫が非常に様式化・特殊化された技術で、何代も前から引き継がれた師匠の技術を、その万法、様式ごと受け継ぐ必要があり、緊密な人間関係のなかでの徒弟制度が維持されたというのも大きい。そうした工房制作については、木を扱う以上、当然のように近代の彫刻家にも引き継がれていく。佐藤の作品でも、小品については仕上げ段階まで弟子が行っていたと-77-

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