鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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注(1) 明治20年代の岡倉天心による東京美術学校での日本美術史講義録には、「日本の彫刻は鎌倉第一期を以て終り、第二期に至れば画の支配を受けてその独立を失ひ、加うるに禅宗盛んなるに至れいう証言が、宮本理三郎、安藤拘ーなどから伝えられ、昭和15年(1940)の「和気清麻日像」制作においても、弟弟子の富永朝堂が制作を手伝ったという(注18)。また、「天女像」の制作では、大まかな指示に従って助手が各部分を彫り、特に晩年に体調が優れなかった佐藤は、マイクで足場の上の弟子に指示して組み上げた。これは明らかな工房制作である。また、万法へのこだわりも、佐藤の制作に木彫の伝統が色濃く表れている点である。師・山崎朝雲が粘土原型を星取り法によって木に写す方法を取った(注19)のに対し、佐藤は粘土を嫌い、木に直彫りをした。そこで特徴的なのは、彫りすぎては木を矧ぎつけ、また彫って接いで、という、あたかも木で塑造をするような方法である。そうした作業には粘土の方がよほど楽であるにもかかわらず、あえて木で行うというのは、万の技術に対する執着がなみなみならぬものであったことを物語る。佐藤の芸術のなかで、伝統彫刻の造形性がいかに関わってくるかについては、次の機会に掘り下げていきたい。最後に、明治・大正期に活躍した彫刻家のうち、伝統彫刻出身者を以下に挙げてみる。小倉惣次郎(弘化2(1845) 大正2(1913))木更津の宮彫師出身、石川光明(嘉永5(1852) 大正2(1913))江戸浅草の宮彫師出身、高村光雲(嘉永5(1852)一昭和9(1934))江戸浅草の仏師出身、山崎朝雲(慶応3(1867)一昭和29(1954))博多の仏師出身、新海竹太郎(明治1(1868) 昭和2(1927))山形の仏師出身、米原雲海(明治l(1869) 大正14(1925))島根の大工出身、北村四海(明治3(1871)一昭和2(1927))長野の宮彫師出身、藤井浩祐(明治15(1882)一昭和33(1958))江戸神田の唐木細工師出身、新海竹蔵(明治30(1897) 昭和43(1968))山形の仏師出身。本研究では山形と上丹生のみを取り上げたが、これらの彫刻家たちを生み出すに至った、それぞれの地方の木彫の歴史と、おそらく幕末・明治・大正に至るまでなお盛んであった創作のエネルギーを思わずにはいられない。特に明治時代に芸術としての彫刻を志す人々は、たとえ塑造家であったとしても、伝統彫刻からの転身が主であった。近代性のみが突出して論じられ、伝統との関わりが見過ごされがちであったこれまでの彫刻観を、具体的に見直す時期に来ているのではないだろうか。78

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