鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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仕1)宮本理三郎インタビ、ュー「体験的内弟子論技を深くするj『現代彫刻』58号、1982年、「佐藤朝山について柳沢基夫・宮本理三郎・横田七郎各氏に聞くJ『礁山美術館報』第16号、1995年など。安藤陶一氏からは筆者が直接聞き取りをしている。ば仏像を置くの必要なしとするに至りて益々衰ふ。これより造像は盛運恢復の期なくして唯自然の衰退に委ねたり。これを明治に恢復するの外なきのみ。」とある(「日本美術史」『岡倉天心全集第四巻J平凡社、1980年によった)。また、帝室博物館編『稿本帝国日本美術略史J(日本美術社、明治41年版(1908))には、江戸彫刻について仏像、能面、宮彫、人形、根付と具体的に例を挙げながらも、絵画などに比べて極端にその記載が少ない。問書の昭和の改訂版『日本美術略史j(便利堂、昭和15年版(1940))ではさらに言及が減り、「(江戸時代の建築装飾彫刻の)表現は弱く所詮その装飾的効果以上に評価さるべきものではない。」など、より否定的な評価が目立つ。また、高村光太郎は宮彫彫刻について「左甚五郎などという伝説を面白がって、下らぬ彫刻を大切そうに持っている個人は方々にあるが、さうかといって、その下らない彫刻を、人間全髄は永久に許さない。決して上位には置かない。日光の眠り猫は有名だけれども、誰も其を南大門の仁王と同様には考えない。J(「雑記帳よりj初出『潮音J昭和2年(1927)、ここでは『高村光太郎全集第5巻』筑摩書房、1957年によった)と述べている。(2) 拙稿「佐藤朝山(玄々)の三越〈天女像〉について」『芸術学の視座(真保亨先生古稀記念論文集)』勉誠出版、2002年(3) 相馬市教育文化センタ一所蔵の佐藤朝山自筆履歴メモによる。(4)松田亨『天女開眼J寓葉堂出版、1980年中に紹介されている。(5)後藤嘉一『山形郷土史散歩J山形県民芸協会、1979年などを参考にした。なお、山形関係資料調査については山形大学の小林俊介氏にご助力を賜った。(6) 星野家文書調査については、星野成子氏にご助力を賜った。なお、星野家文書のうち『職人波方帳J『細工請取帳』『蔦歳帳jは『山形市史史料』第58号(山形仏壇関係史料)山形市、1980年で一部公刊されており、解読については今回それに負っところが大きかった。星野吉兵衛については、同書の後藤嘉ーによる解説が詳しい。(7) 聞き取り調査では伝統工芸土・鈴木義雄氏のご助力を賜った。刷新人物往来社、1970年(9) 『高村光太郎全集第10巻』筑摩書房、1956年所収同谷口治達『彫心澄明富永朝堂開書』西日本新聞社、1983年(12) アルス、1926年(13) 田中修二『彫刻家・新海竹太郎論1東北出版企画、2002年などがあるo(14) (注2)を参照。同『淡海の手仕事彦根仏壇J彦根仏壇事業協同組合、1996年などを参考にした。同上丹生での調査では伝統工芸土・森哲荘氏、醒井木彫美術館・岩寄正一氏のご助力を賜った。間昭和24年(1949)2月15日松田亨宛書簡(注4前掲書にその引用がある。)(18) (注10)前掲書同星取り技法については柳沢秀行「近代木彫の一断面一米原雲海・山崎朝雲・平櫛田中の明治三十年代」(『MUSEUMj第515号、1994年)などを参照。79

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