みやずおとたちばなひめやまとひめばんだふやまとたけるのみこと蝶々か〉(昭和4年)〔図2〕、〈貴女裳を引く〉(昭和5年)、〈貴女行路〉(昭和5年)という最初期の詩歌を主題とする作品が見られる。ドレス姿の女性、花、蝶々といった華やかな西洋的モティーフが明るい色彩で表された絵柄や、その余白や周囲に記されたロマンティックな自作の詩文には、川上の影響とともに、元来ゴッホに憧れて洋画家を志した棟方の西洋への憧憶が色濃く感じられる。昭和6年頃、棟方は同郷の詩人福士幸次郎に日本浪是派の詩人、佐藤一英を紹介され、佐藤が編集する雑誌『児童文学Jの挿絵制作に携わったことがきっかけとなって、佐藤と親交を結んだ。そして昭和7年頃には、保田輿重郎、蔵原伸二郎、中谷孝雄ら日本浪呈派の詩人たちが、中野区大和町の棟方宅近隣に文芸雑誌『コギト』の編集所を置いて出入りしていたことから、彼らとも親しくなっている。彼ら日本浪是派の詩人たちは日本の古典文学や古典的題材に関心を寄せ、西洋の影響によってではなく、日本的精神に根差すことによって新しい近代文学の確立を目指していた。彼らの影響もあってか、棟方は川上澄生の影響と西洋への憧憶が濃厚に漂う作風から抜け出し、動植物や山河など自然をモティーフに平面的な画面構成と巧みな装飾性を見せる作品を生み出して、次第に個性的な仕事ぶりを発揮するようになる。〈高来譜〉(昭和10年)〔図3〕はこの時期の代表的作品である。そして、その翌年制作された〈大和し美し〉(昭和11年)〔図4、5、6Jで棟方の個性は大きく花開いた。この作品は、昭和6年に佐藤一英が日本武尊の東征に題材をとって詠み、昭和8年2月刊行の『新詩論』第2輯に発表された同名の長詩を主題としている。「日本人のわたくしは、日本から生まれ切れる仕事こそ、本当のモノだと思ったのでした。(中略)日本が生む絵にもっとも大切な、この国のもの、日本の魂や、執念を、命がけのものをつかまねば、わたくしの仕業にならない」(注3)と考えた棟方にとって、古代神話という日本古来の題材が佐藤独自の劇的な解釈で著された「大和し美し」は自己の画風を確立する過程で重要な存在になったと思われる。『新詩論』界に感激し、「思わず『コレダッ』と思った」(注4)棟方は〈大和し美し〉の構想、を練り始め、昭和11年に完成、同年4月の第11回国画会展に出品した。東征の帰途死を前にした英雄、日本武尊が、故郷を懐かしみ、美夜受、弟橘姫、倭姫という三人の女性を思い起こしながら波乱万丈の人生を振り返るという濃密な内容の詩を主題とするこの作品では、詩句の文字が画面に書き連ねられ、文字と絵柄がj軍然一体となって物語が展開していく。絵巻物という伝統的な絵画形式がとられていることもあり、「日本から生まれ切れる仕事」が強く意識されていることが分かる。第2輯が刊行された昭和8年前後「大和し美し」を読んで自らの方向性と一致する世84
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