鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
98/592

。。れたのは全原文テキストのわずか5分のl弱にあたる18点で、巻子装ではなく額装されていたことがうかがえる。そして、同年10月28日付柳宗悦宛封書には「次の仕事『なめとこ山の熊』を後をつづけます。全部出来上った上、又見直しいただいて悪るいところは彫り直し事に致しつもりでございますJ(注11)と制作続行の意思を伝えているが、その後〈なめとこ山の熊〉に関する報告はとぎれる。日付不明の柳宗悦宛葉書には「表紙と扉を彫るとーと先づの丁度の二十五枚になりまするJ(注12)とあり、25点は制作したらしいが、現存するのは題名と作者名を記した2点を含めても22点。最後それ以上制作したという記録はなく、ほどなく〈なめとこ山の熊〉は中断されたと考えられる。その後、棟方は柳宗悦から「伝教大師」、「善知鳥J、「釈迦十大弟子」などを制作課題として与えられ、それらの準備や制作に忙しくなる様が、日本民塞館所蔵の棟方志功の柳宗悦宛書簡からうかがえる。この中断の背景にはそのような事情もあるだろう。しかし、棟方は、詩歌とは比較にならない原文テキストの文字の多さ、詩歌に比べて韻律に乏しい散文体、そして、劇的場面の連続からなる〈大和し美し〉とは異なり、小次郎と熊の交流のエピソードが淡々と積み上げられた物語をいかに変化をつけて表現するかという問題に難渋したのではないだろうか。文字と絵柄がひしめき合って勢いの失われた構図にもそれが表れているようである。また、この中断の直後の部分は、殺した熊に向かつて小次郎が自らの苦悩を独白する、物語の本質的な場面である。このような内面の苦悩を表現するには、〈大和し美し〉のように文字と共に場面を展開させるだけでは不十分だと気がついたのかもしれない。最後の3点も不満足な出来に、破棄されたと考えることもできる(注13)。しかし、その翌年制作された〈善知鳥版画巻〉(昭和13年)〔図16、17、18〕では、〈なめとこ山の熊〉と同じく、貧しさゆえに殺生を重ねる東北の猟師の悲劇的宿命という物語的本質を持つ謡曲「善知鳥」を、〈なめとこ山の熊〉で当初構想したのと同じ絵巻物形式で、〈なめとこ山の熊〉とは全く異なる表現方法によって版画化している。善知鳥は青森の海岸部に生息する海鳥で、棟方の郷里青森市はかつて善知鳥村と呼ばれていた。青森に伝わる外ヶ浜伝説では、善知鳥には親鳥が「うとう」と呼びかけると雛鳥が「やすかたJと答える性質があり、この性質を利用して雛鳥を捕獲した漁師は親鳥に追いかけられ、親鳥の血の涙がかかると幽鬼になるという。「善知鳥」は、幽鬼となった漁師と出会った旅の僧が請われて漁師の妻子のもとを訪ね、その霊を弔うという物語である。の3点はなんらかの事情で破棄されたか、失われてしまったのだろう。いずれにせよ、

元のページ  ../index.html#98

このブックを見る