⑩ 合貝の図様研究研究者:徳川美術館学芸員龍澤はじめに本研究は、「貝覆(かいおおい)」という遊びに用いられる「合貝」に描かれた図様について、その画題と、それらがどのような歴史的な背景を持っているかを、現存作例と文献資料から検討するものである。合貝の裏面には装飾や絵が施されている場合が多いが、これまで美術史的な視点から十分な研究がなされてきたとは言い難い(注1)。本稿においては、貝を絵が描かれる画面形式の一つとして捉え、「屏風絵」や「壁画」といった呼称に準じて、試みに「貝絵Jという名称を用いて論を進めることとする。二「合貝」とは「貝合(かいあわせ)」は、平安時代に流行した「物合」の一つであるが、本稿でとりあげる合貝は、その「貝合」に用いられたものではなく、「貝覆」という別の遊戯のために作られた貝である。「貝覆」は『山家集』や、『増鏡』など平安時代の文献史料にも散見されるほか、『古今著聞集』巻第十一書園(注2)には「後堀河院御時綸づくの貝おほひの事」とあり、天福元年(1233)の春に「源氏綸十巻」をかけての貝覆が行われたとの記事も見られる。また、『徒然草』の第百七十一段には、貝覆に興じる人々についての描写がある。文献史料には、その後の時代にも、室町時代の『看聞日記』(注3)や、後述する『御湯殿上日記』など近世に至るまで貝覆に関する記事が散見される。貝覆は蛤の貝殻が、対になる片方としか合わないという特性を利用した遊びで、貝桶および合貝がしばしば婚礼調度の中で重要な位置を占めるのは、その貝の性質が女性の貞節の象徴と考えられたためである。貞享元年(1684)に黒川道祐が著した『薙州府志』巻七には合貝についての記述があり、蛤を左右の貝片、出貝と地貝に分け、場に地貝を同心円状に伏せて並べ、次に、場の中央に出貝を一つずつ伏せて出し、その外側の地模様に合う地貝で出貝を取って合わせ、多く取った者を勝ちとする、という遊び方が説明されている。なお、尾張徳川家十四代慶勝(文政7年〜明治16年1824■83)夫人貞徳院矩姫所持の文書「御貝桶御貝お(//)ひの覚書」(徳川美術館所蔵)では、地貝を「男貝」、出貝を「女貝」とし、貝桶の紐も、男貝と女貝で異なる結び方をするよう定めている-98 -彩
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