(1590) 8月29日条には裏打ちのために緞子が届いたとあり、美しい裂が貝の装飾に〔図1〕ほか、貝のまき方、取り方、手順などについても、「仰むけても絵の見えぬ様に指にて覆うなり」など細かく記述されている。時代や貝覆が行われる環境によって、貝の呼称や遊び方については差異があったと思われる。先にふれた『薙州府志』では、「画草子屋」や「張子屋」が合貝と貝桶を作っていたとあるが、一方で、婚礼調度の一つとして大名家で製作された例があることを考えると、合貝の製作環境は一様ではなかったと思われる。合貝の製作に関する記事が多く見られる文献史料として『御湯殿上日記』が挙げられる(注4)。貝の裏をうつ、という記事が散見され、貝の裏に用いる裂についての記事として、永禄5年(1562)8月8日条、同9日条に、それぞれ四色、六色の裂が届いたとあるほか、天正18年用いられていたことが推察される。裂を用いた合貝の現存作例は未だ知らないが、林原美術館所蔵の合貝の中に含まれる「亀甲花文」などの文様のみを描いた貝や、貝絵に特徴的な表現としてしばしば見られる赤地に金泥の装飾〔図2〕は、あるいは裂の表現なのかもしれない。また、貝の装飾については、箔を用いていたことを示す記述も見られる。貝絵についての記事としては、永禄5年8月8日条(注5)に「いりゑ殿」から絵の描かれた貝が届けられたとある他、同年11月17日条(注6)には「新中納言」が貝の絵を描いたという記事などが挙げられ、公家や門跡寺院などでも貝の装飾が行われていたことがわかる。一方で、絵画史上重要な流派の工房も、合貝の製作に携わっていたものと推察できる。同じく『御湯殿上日記』の永禄8年正月3日の条(注7)には、「とさ所」より胡鬼板と、貝桶が届いたとある。ここに見られる「とさ」とは、室町時代以来宮廷絵所もっとめた上佐派であると考えられ、貝桶の意匠だけでなく、貝の絵も描いていたのではないかと推察される。また、『中院通村日記』(注8)には、狩野興以が後水尾天皇の命によって貝に絵を描くことになり、その際、恐らくはその参考として、俵屋と狩野三甫の絵が渡されたとある。この記事により、狩野派が貝の製作に携わっていたことがわかる。このように、土佐や狩野といった幕府・宮廷の御用を勤めた絵所でも、貝の絵が描かれていたことが文献史料から確認できるのである。三諸相17世紀の作品を中心に次に合貝に描かれた絵「貝絵Jについて見ていきたい。現存作例は多数あるものの、管見の限りでは、江戸時代を遡る例は未だ見いだせていない。今回は、現存作例の中でも江戸時代前半の作例をとりあげ、描かれた画題に着目してみたい。-99-
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