鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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図32〕に描かれている画題も、花鳥、草花、i原氏の三種類である。先に見た、「御貝27 • 28〕(注21)。また、先述した、徳川美術館A本と神宮徴古館本に共通する柳に水一方で、近世初頭から隆盛する版本文化の影響も見られる。徳川美術館A本に描かれている人物図のほとんどは嵯峨本伊勢物語と共通し〔図23• 24〕、先にも数例挙げたが、神宮徴古館本の中には版本の「蔑の草子」と同様の図様も見られる〔図25• 26 • 車図〔図29• 30〕や、徳川美術館A本と林原美術館本に共通する誰ガ袖といった、17世紀前半に屏風絵として流行する画題が含まれているなど、ここに見てきた数件の貝絵においては、中世の伝統と近世の新たな意匠が交錯していると言える。四その後の「貝絵」貝絵はその後、幕末まで描き継がれたが、画題のバリエーションは乏しくなる傾向にある。先に見た器物の図様は、例えば18■19世紀の作と考えられる貝絵〔図31〕にも、徳川美術館A本、林原美術館本、成巽閣本と共通する碁盤や、琵琶などが描かれており、貝絵独特の画題は受け継がれているものの、明らかに歌絵とわかるような図様は減少し、花鳥・草花・源氏・器物に集約され、パターン化していく。18世紀の製作の徳川美術館所蔵「松橘蒔絵貝桶付属合貝」(注22)〔以下徳川美術館B本と呼称御貝お(バひの覚書」では、「男貝、女貝の裏には源氏五十四帖の絵を画く。貝の数五十四づ、なり」とあり、三百六十という数へのこだわりもなくなっており、貝絵の画題も源氏物語のみとなっている。徳川美術館B本には、貝の表側に源氏物語絵巻の帖名を示す貼紙があり、享受のあり方も変化していたことを窺わせる。五おわりに今回中心として取り上げた17世紀前半期の貝絵の多様な画題は、当時どのような図様が流布していたかを示す史料であり、そこから和歌や物語などが読みとられていたことを考えると、享受者が持っていた教養を物語っているとも言える。一つ一つは小さな画面であるが、それが多数集まって形成され、受容される貝絵という独特の画面形式は、貝絵を受容した人々が共有していたイメージの目録、あるモチーフからどのような意味が理解されていたのかを示す「イメージマップ」(注23)とも言うべきものであったと考えられる。貝絵の中には、冷泉家所蔵合貝のように「草花尽くし」になっている作例もあり、そうした個々の差異と、受容者の違いによる貝絵の特徴についてはさらに整理していく余地が残されている。今後の課題としたい。-103 -

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