鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注(3)『看聞日記」応永27年(1420)3月12日条「雨降雨中徒然之間有貝覆分左右予椎野(5) 永禄5年8月8日条[(前略)いりゑ殿より御かいのうら十。ゑかかせられてまいる。(後略)」(8) 元和2年(1616)3月13日条。(1) 絵画史の視点から合貝を取り上げた論考として、以下を参照した。イ並木誠士「貝あわせその流行をたどって」(『茶道雑誌』河原書店,1993年3月号)ロ同氏「蛤合かるた屏風について」(『京都工芸繊維大学工芸学部研究報告』第49号,2001年)(2) 徳川義宣綱「源氏物語関連古文献資料」(『徳川美術館蔵品抄2i原氏物語絵巻』徳川美術館,御喝食女中御寮等覆之左負了(後略)」(『続群書類従補遺二』所収続群書類従完成会,1948年)(4) 『御湯殿上日記』に見られる合貝関連の記事については、拙稿「徳川美術館所蔵『茫に月蒔絵貝桶付属合貝』について」(「金鮪叢書』第30輯,財団法人徳川黎明会,2003年)でふれた。(『御湯殿上日記」続群書類従補遺三(一)〜 (十一)、続群書類従完成会,1958■66年)「いりえ殿」は、尼門跡の三時知恩寺のことか。(6) 永禄5年(1562)11月17日条「(前略)しん中納言御かいのゑかきてちさん(後略)」新中納言は、山科言継か。(7) 永禄8年正月3日条「(前略)わかみやの御かたのこきいたとさ所よりいできてまいる。おなじく御かいおけもまいる。(後略)」「わかみやの御かた」は正親町天皇の子、陽光院誠仁親玉か。(9) 本作品については、(注4)前掲拙稿で紹介した。(10)元和10年(1624)に義直の側室となった、津田信益女、東福門院侍女さい(〜貞享元年(11)京姫(広幡忠幸室寛永3年〜延宝2年1626■74)。(12)土井次義「狩野永徳/光信」(『日本美術絵画全集第9巻狩野永徳/光信』集英社,1978年)(13) 鳥居のみを描いた同じような絵が9点含まれている。他作品にはない特徴であり、伊勢神宮伝来であることとの関連性が推察される。(14) 並木誠土氏(注l)前掲論文(口)(15)大熊立治監修白畑よし富士谷あっ子著「貝あわせ』(フジアート出版,1974年)(16) 小池富雄「綾杉地獅子牡丹蒔絵調度について一近世大名婚礼調度の所用者の再検討ー」(『金鮪叢書』第22輯,財団法人徳川黎明会,1995年)(17) 扇面草子については、安原慎琴『「扇の草子」の研究』(ぺりかん社,2003年)に詳しい。(18) 貝の大きさは、縦約6.0■6.3センチ、横8.5■8.9センチで、画題は源氏、草花、花鳥、器物である。(19) 箱書によって、後西天皇(1637■85)御下賜による親皇嘉門院所蔵の品であることが知られる。画題はおおよそ、源氏、花鳥、草花、器物の4種類である。貝の大きさは、縦6.5センチ、横⑳ 並木誠士氏は、(注l)前掲論文(口)で、器物の図様を貝に特有の絵柄とし、「『もの尽くし」的な感覚」が指摘できると述べている。大量の貝絵の集合体である合貝は、器物のみならず、草花や花鳥などの他の画題に関しても様々な種類が集められており、貝絵に「尽くし」を好む1998年)1684)。8.3センチ、厚さは約4センチである。_ 104 -

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