鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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⑪ チャールズ・デイター・ウェルドンと日本1 研究者:早稲田大学文学部助手早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程瀧井直子ラフカデイオ・ハーンと共に日本を訪れたアメリカ人画家がいる。ハーンは、ニューヨークのハーパーズ杜の特派員として1890年4月に来日した。このとき挿絵画家として、チャールズ・デイター・ウェルドン(CharlesDater Weldon, 1844-1935年)も同行していた。ウェルドンがハーンのうしろ姿を描いた一枚のスケッチは、ハーン研究者の間でよく知られている(注l)。ところがハーンは来日から約1か月たらずでハーパーズ杜との契約を破棄し、ウェルドンとの関係も絶たれてしまった。挿絵家の方が自分よりも厚遇されていることに憤慨したからである。このような事情があったためか、ウェルドンのその後の消息については、これまで追求されることもなかった。ウェルドンは、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、アメリカ水彩画協会の会員であり、挿絵画家としても活躍した。報告者は、本助成金申請に先立つ調査で、ウェルドンがハーンと決裂した後も、6年の滞日期間に、ハーパーズ社に挿絵を送り続けたこと、また、ナショナル・アカデミーの展覧会を通して日本を主題とした作品を発表し続けたことを確認することができた。本助成を受けて昨年度から行った調査の結果、これまで謎に包まれていたウェルドン像がその輪郭を現しはじめた。本稿では、アメリカ美術史上からも忘れ去られている彼の経歴や画業、日本に滞在していた時期の活動などについて言及する。ウェルドンは、オハイオ州、マンスフィールドで父ジェームズ・ウェルドン(1872年没)と母、旧姓エリザベス・マックイーロイの間に生まれた(注2)。ウェルドンは、クリーヴランドの陸軍士官学校を中退後、フィラデルフィアで兄ウィリアム・ハリソン・ウェルドン(1839-68年)の勤める銀行に就職する。その後アイオワ州、アイオワ・シティで帽子兼毛皮店を経営するなどした。美術との関わりは、シカゴの石版印刷所でデザインの仕事をしたことに始まる。やがてニューヨークヘ移住。そこで『デイリー・グラフィック』誌の挿絵画家となる。その後、素描やデザインの勉強をするためにロンドンのレイズ・アカデミーに留学したが、資金不足のため短期間で帰国。また、1870年代後半から80年代初頭にかけて、ニューヨークのアート・スチュー-109 -

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