(1883年頃、スティーヴン・フェリスのエッチング現存)や、花嫁衣装を質入れする(1887年頃、ペンシルバニア・アカデミー・オブ・ファイン・アーツ所蔵)をペンシ5)。1890年に来日。1894年秋、ウェルドンはハーパーズ杜から派遣されたジャーナリス9)。センチュリー・クラブの会員としても活躍(1890-1914年会員)、そこで日本を1897年、53歳のときエリーズ・ゴーチェと結婚。妻のことは、長いこと郷里の親戚デント・リーグに在籍し、同校の会員でもあった(注3)。さらに、1880年初頭頃にはおよそ2年間パリに滞在し、ハンガリ一人画家ミハーイ・ムンカーチに師事した。パリ時代の油彩画といわれる《静物》は、ナショナル・アカデミーに現存する。ニューヨークに戻ってからは東14丁目11番地にアトリエを構えた。ウェルドンの挿絵は、1880年代の『ハーパーズ・マンスリー』、『ハーパーズ・ウィークリー』、『ハーパーズ・ヤング・ピープル』の各誌上で相当数確認することができる。その一方で、ウェルドンは本格的な油彩画も展覧会に出品している。西洋人形を抱いてソファーで居眠りしている少女に日本人形の一群が近づく様を描いた〈夢の国》若い女性を描いた《花嫁衣装》(1884年頃、行方不明)をナショナル・アカデミーに並べ、ガラスの丸鉢に生けられた花を前に物思いにふける女性を描いた《形見》ルバニア・アカデミーに展示している(注4)。また、1889年にはナショナル・アカデミーの準会員に、1897年には正会員に選ばれ、アメリカ水彩画協会ではカタログ委員、展示委員、選考委員などの役職を務めた(注ト、ジュリアン・ラルフと中国へ渡った。ラルフは、9月10日、エンペレス・オブ・ジャパン号で横浜に到着。二人は横浜で合流し、上海に向かった(注6)。ウェルドンとラルフは江蘇省、浙江省などを訪問。ウェルドンの挿絵入りで、大運河を屋形船で旅した様子や、中国の物語などを『ハーパーズ・マンスリー』誌に連載した(注7)。2か月後=人は日本に戻ったが、ラルフは直接アメリカヘ帰国し、ウェルドンは日本に残った。ウェルドンが最終的にアメリカに帰国するのは1896年1月のことであった(注8)。ウェルドンは帰国後もアメリカ水彩画協会、ナショナル・アカデミーの展覧会に日本を主題とした作品を発表し続け、またボストン・アート・クラブにも出品した(注主題とした作品を展示した(注10)。さらに、サウスキャロライナ・'州間・西インド諸島博覧会(1901-1902年)の美術展に〈日本の少女》を出品、銅賞を受賞した。この作品は、1904年のセント・ルイス万博のアメリカ絵画部門でも展示された記録がある(注11)。-110-
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