には伏せられていたという。さらにウェルドンは、ハーパーズの特派員として1899年1月から春にかけて再度ラルフと共にインドヘ渡航(注12)。二人は、ボンベイ、アグラ、ウダイプール、ベナレス、カルカッタなどを訪問。この旅行の成果は『ハーパーズ・マンスリー』誌に発表された(注13)。妻も死去。二人はウェルドンの郷里、マンスフィールドに眠っている。今回の調査で、遺族のご厚意により、ウェルドン筆と伝えられるタイプスクリプトのコピーを入手できた。その原稿は、「鎌倉の画家の家」と題され、タイプに一部手書きの加筆がある。30頁から成り、日付や頁番号は明記されていない。ハーンを日本へ派遣し、ウェルドンに挿絵を担当させるという計画は、ハーパーズのアート・デイレクターだったウィリアム・パットンの発案だと記されている(注されたことになる。ウェルドンは、日本行きをたって望んでいたわけではなかった。「私が日本に行ったことは、まったくの偶然からです。実のところ、日本のような遠い場所に行くことを真剣に考えたことはなかったのです」(注15)と彼は書いている。このタイプスクリプトによるとパットンは、ニューヨークの別の出版社(スクリブナーズ社)が、エドウィン・アーノルド卿と画家ロバート・ブラムを日本に派遣することを企画中であるという情報を入手し、ライバル社の先手を打つべくハーンとウェルドンによる日本のレポートを企画したようだ。前に、ウェルドンは46歳の誕生日を迎えた直後だった。上陸後、口人はしばしば、日本で見聞したことなどについて語りあっていたようだ。そして、ハーンが先に文章を書き、ウェルドンが後から挿絵を書くという計画が立てられた。後に横浜のグランド・ホテルの社長となり、ハーンの親友となったアメリカ合衆国海軍主計官のミッチェル・マクドナルドは、二人の企画に大変関心を示したという。こんな調子なのでウェルドンは、ハーンとの関係がすこぶる順調だと感じていた。しかし、訣別は突然やってきた。ある朝、ウェルドンが居留地を歩いているとハーンに偶然出くわした。ウェルドンはこの時の会話を次のように記している。「やってしまったよ!」一ー「ど1910年代以降の展覧会記録や挿絵の仕事は極端に少なくなる。1935年8月9日、ウェルドンはニュージャージー州で91歳の生涯を閉じる。2年後14)。タイプスクリプトの出現によって、このことがウェルドン側の資料からも補強1890年4月4日、横浜に着き、アビシニア号から下船したとき、ハーンは40歳を目2 -111 -
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