鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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た24点の写真によれば、長谷の大仏、地蔵、農家の風景、子供たちなどが描かれていうしたんだい?」ーー「ハーパーズ社へ手紙を書いたのさ、死んじまえ、つてね。」ハーンが絶縁状をハーパーズ社にたたきつけたあと、おのずと二人の関係は疎遠になっていった。ウェルドンは来日当初、バンド・ホテルやグランド・ホテル、友人と借りた居留地のアパートなどに滞在していたようだ。それから2■ 3年後の1892年、93年の水彩画協会やナショナル・アカデミーの展覧会の記録に掲載された住所は横浜とあるから(注16)、そのころもおなじく居留地に住んでいたように記録上はみえるのだが、実際には6年間鎌倉にいたことがタイプスクリプトで確認できた。彼は、古い民家を数件購入し、一件をアトリエに改造した。その茅奸き屋根に横浜からとりよせたガラス板をはめ込んで天窓を作った。周囲に「ヨーロッパ人」は住んでおらず、近所の老人や若者と友情を深めたと記している。また、ウェルドンは日本語を話すことができたとも語っている(注17)。ウェルドンが日本に滞在した1890年代前半は、多くの英米人画家が来日した時期とも重なる。例えばイギリス人画家ジョン・ヴァーレー・ジュニア、アルフレッド・パーソンズ、エドワード・アトキンソン・ホーネル、ジョージ・ヘンリー、アメリカ人画家セオドア・ウォレス、ブラムの名を挙げることができる。これらの画家同士の交流の実態は今後の研究課題だが、少なくともウェルドンは、〈飴屋》の作者として知られるブラムとはなんらかの交流があった。ウェルドンは、ブラムと先述のマクドナルドにグランド・ホテル食堂で会う機会があったとタイプスクリプトに記している。ウェルドンが描いた日本のイメージは、水彩や油彩による作品と、本や雑誌記事の挿絵の二つに大別することができる。これまで、ウェルドンによる日本主題の作品は、各種展覧会目録に記載されている作品のタイトルの他、当時の雑誌に掲載された図版を通してのみ把握することができた〔図l〕。ところが、ウェルドンの兄の子孫が水彩画、素描、油彩画を所有していることが判明した。遺族の御厚意で送っていただいる。作品の実見調査や作品データの収集は今後の課題としておく。本稿では、稿者が実際に目にした雑誌や単行本に出版された挿絵について報告する。ハーンの文章に挿絵をそえるという計画は白紙に戻ったものの、ウェルドンは滞日中、他の作家の文章にイラストを描き続けている。メイ・セント=ジョン・ブラムホールが執筆した『日本のおちびさんたち』の挿絵は、その代表的な作例である。ブラ3 -112 -

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