ムホールは、夫と来日して少なくとも2年間を横浜の居留地に暮らし、居留地で出版された英字新聞『ジャパン・ガゼット』に詩を投稿した他、長谷川武次郎の店から縮緬本『日本の詩』(JapaneseJingles、1891年)を出版している(注18)。またウェルドンは、『ハーパーズ・ウィークリー』誌に雨森信成が寄せた記事のイラストも担当した(注19)。雨森はグリフィスらに学び、欧米への留学経験を持ち、外国人向けの観光ガイドや英語の論文を執筆しただけではなく、先述のマクドナルドやハーンとも交流があった(注20)。その内の一点《鉾だしの祭り、日本》は、A2の大判である。一方の〈菊花祭り、日本》〔図2〕は、A3全頁大で、6点の図の組み合わせで構成されている。これらの6点の図版は、紀行作家兼写真家で、ワシントンのポトマック川河畔に桜並木をつくることを提唱したエライザ・ルーアマー・シッドモアの著書『日本人力車紀行』(1891年)に転用されている(注21)。加えてウェルドンは、『センチュリー・マガジン』誌に掲載されたシッドモアの記事「死のない島」(1896年)や「見事な日本の朝顔J(1897年)、「京都の有名な庭園J(1912年)の挿絵も描いた(注22)。「死のない島」に、ウェルドンは写真にもとづいた厳島神杜と周辺の風景や子供たちなど7点の挿絵を描いた。写頁の撮影者は不明。「見事な日本の朝顔」には、東京入谷の朝顔市や、朝顔を扱う植木屋と愛好家などを描いている。「有名な京都の庭園」には、京都の庭園の風景画7点が掲載されている。ウェルドンは、ハーパーズ社向けのイラストとして、この他に歌舞伎『忠臣蔵』の一幕や、カスパー・ダヴィッドの著わした世界のスポーツを紹介した記事に、野球をする日本の少年たちを描いている(注23)。帰国後も、日本を題材とした挿絵は描き続けられる。例えば、人気女流作家アリス・カドウェル・ヘーガン・ライスの児童文学『キャプテン・ジューン』(1907年)の挿絵を担当した(注24)。同書は、1906年12月から4回に渡って幼年向け雑誌『セント・ニコラス』に連載された。フィリピンに駐屯する父親に会いにいく途中、日本人子守「セキさん」と日本に滞在した少年ジューンが、日本での冒険を通して成長する話である。ウェルドンは、そこに計9点の全頁大のイラストを寄せた〔図3〕。帰国後10年以上経ってからの作品である。また特筆すべき点として、ウェルドンは、ジョン・ルーサー・ロングが『センチュリー・マガジン』誌に掲載した短編「マダム・バタフライ」(1898年)に、全頁大の蝶々夫人の挿絵〔図4〕を描いた(注25)。ロングは、長崎に住んだ経験のある姉から聞いた話をもとにこの短編を書いた。「マダム・バタフライ」は1900年にアメリカ人演出家デイヴィット・ベラスコによってブロードウェイで舞台化され、そのロンド-113 -
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