鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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の慮舎那・下段には降魔触地印の釈迦牟尼が配置されている。脇侍群を含めて全体の構図を見ると、真中の横線上の三仏、即ち、阿弥陀.慮舎那・薬師を中心に法界と衆生界、つまり、浮士界と娑婆界の二つの世界に分けられることがわかる〔表1〕。法界の仏と菩薩は肉身を金色で、娑婆界人物の肉身はトーンの低い黄色に塗られ、額と鼻、顎には白のハイライトで現実感を与え、両界の尊像を区別している。また各々の尊像はその性格に応じて注意深く差別化して描写されている。俗形人物に囲まれた釈迦牟尼はその下段への配置から、我々が住んでいる娑婆界の最も近い存在である応身〔図4〕として、また慈悲と菩薩行を現す報身は華麗な装飾美〔図3〕で、法身は最も上で下のあらゆるものを統合する存在、つまり「一即多、多即ー」を意味する智拳印の尊像〔図2〕として、それぞれ強調され描かれている。娑婆界には、普通の衆生界ではなく宮廷ではないかと思われる雰囲気にあふれている〔図5〕。王と王后と考えられる図像〔図6〕は、三ヶ所に繰り返して現れることがわかるが、上の法界の方に向かって歴拝していくかに見える。この物語風の表現から何らかの意味が背後にあると考えられる。これらの特徴と作品の品質から、王家の特別の注文製作によったものであることが推察される。さて、本図に関しては、既に武田和昭氏と洪潤植氏による二篇の論文が発表されている(注l)。まず制作時期に関しての従来説としては、文定王后(1501■1565)の好仏策による仏教復興期を飾る一作(16c後半)という説(注2)、また高麗仏画と朝鮮仏画の過渡期的様式として朝鮮初期作という説(注3)があるが、論者は世宗から世祖に当たる時期(1418■1468)の仏教復興策の影響の下、15C後半に制作されたと推定したいが、その根拠に関しては第2章で形式分析と共に触れる。本図の五仏の図像成立に関しては、朝鮮前期の抑仏政策による宗派の減宗に起因する諸仏の適当な組合、また、密教を基にした五仏信仰体系を表しているという推論などが唱えられてきた。また本図の三身の思想的背景として華厳と密教の融合説が云々されているが、あくまでも「海東華厳Jの伝統を主にする禅宗の範疇の中からその思想的な背景を求めたい。これに関しては結論のところで触れることにする。また、横線上の阿弥陀.慮舎那・薬師の三体の仏尊の組み合わせ〔図7〕は「三世仏」として推定される傾向が強いが、これは「三仏(或いは、報身□仏)」として定義し、論理を展開させたいと思う。以上からみると、本図は、その編年設定のみならず、図像学的意味またその思想背景においても、まだその価値が正しく評価されていないと思われる。本論では、従来の論文で看過されてきた部分をより具体的に考察し、新しい解釈を試みる。-119 -

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