2期(15C中葉〜16C初)、つまり高麗様式と違い、朝鮮的な特徴が現れ始める時期に第2章形式分析を通じた年代推定とその時代的背景2 -1 形式分析と時代編年2-2 時代的背景王室周辺の発願作品は、一般人又は貴族の発願の墨書画記とは違って、金書画記をその特徴とする。本図には、金書画記が書き込まれているが、残念ながら判読が不可能な状態であるため、その編年は形式分析に頼るしかない。論者は朝鮮前期様式の第該当すると推定したい(注4)。その理由としては、描線の変化(高麗の鉄線描から強弱とリズム感がある線へ)、衣摺の模様(朝鮮特有の簡略な菊花文・円文・花文)、梵式の残影(二重の方形光背・頂上肉髯・上下対称の仰蓮台座)などの要素があるが、ここでは最も目立つ形式的な特徴として仏菩薩の人体比例のみを取り上げて考察したい。穏やかな仏尊の顔と仏菩薩の比較的細く長い人体表現、殆ど方形に近い顔の形と八等身に近い仏菩薩の人体比例は、15世紀中期にみられる特徴である。本図を第3期の文定王后と同じ時代の作例として見倣す場合もあるが、理想的な人体を意図したこのような長い比例は、第3期には見難い特徴で、ソウル・国立中央博物館蔵「四仏会禎」(1562)の作例のように、より現実的でボリュウム感のある世俗的な形へ変化していくことが看取される。このようなプロポーションを見せる関連作としては京都・知恩院蔵観経変相図(1465)がある。また金剛峯寺蔵釈迦八相図(1535)〔図8〕の例を最後にかかるプロポーションは見られなくなるため、この作品の制作年代を本図の下限に設定したい。本図は世祖期以後、商麗仏画の形式から脱皮し、「朝鮮Jという特徴が創出される時期、つまり第2期に当たる作例だと考えられる。それでは、本図の出現を可能にさせた文化的原動力の役割を果たしたのは何であったか、考察して見よう。朝鮮前期の仏画制作においてその最高の復興期としては明宗代(1545■1567)の文定王后が行った仏事が挙げられる傾向が強い。さて、仏画と直接的に関連する枝葉末節の記録のみに関心が払われ、誰もが知っている大きな歴史事象が見逃されていると考えられる。歴史上朝鮮時代の文化ルネサンスと呼ばれる時期、つまり、ハングル(訓民正音)が創製された時期である世宗期とそれに繋がる世祖期を、仏教文化の側面から再検証してみる必要があると思う。世宗は初期には仏教抑圧政策を断行したが、その晩年(世宗15年)には仏教保護政策へ転換する。まず何よりもハングル、世宗が創製した訓民正音の第一の目的を想起-120 -
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