上記のように真理そのものとしての法身であるヴァイロ—チャナは、形相化が不可する必要があろう。その目的は「民衆敦化」であったが、その具体的な方法は仏経のハングル訳経事業とそれの頒布を通じた教化であった。高麗の王族を始め上流階層の専有物であった漢文経典を、民衆にもたやすく読めるようにした国家的次元の啓蒙事業ともいえよう。世宗の文化政策の基盤を受け継ぎ、世祖代にはその繁栄期を迎えるが、世祖は朝鮮前期の最大の興仏君主とも称されている。その代表的な業績としては、刊経都監の設置と大円覚寺の中興などがある(注5)。本図が制作された時期は、このような国家的後援が文化的原動力として働き、かかる興仏策の影響力がまだ有妓な時期であったと推定される。第3章三身仏一如来形と菩薩形のヴァイロ—チャナの図像展開を中心に一第3章では中国と日本の間接的関連作例また韓国の直接的関連作例との比較を通じて、本三身仏図像の普遍性と特殊性を考察してみたい。仏身(特に法身)の定義に関して経典には、「非以相好為如束無相離相寂滅法」剛般若波羅蜜経論巻下』)、また「法身説法不可以言語音声形相文字而求」『伝心法要』)と記されている。能という表現でしか形容できないことにもかかわらず、むしろこれに反して、造形化は早くも5世紀初(北魏時代)から、ほかのいかなる仏尊の図像より多様な変遷過程を経て行われてきた。身内に一切仏刹土を具備しだ汎宇宙的存在としての慮舎那仏、いわゆる「法界人中像」とも呼ばれる形相の時代を経て、王即仏思想の盛行と共に巨大な大仏(龍門奉先寺・奈良東大寺など)としてその姿が現われたりもする。しかし、ある時点から菩薩形の尊像表現が現われ始める。東アジアで最も古い菩薩形(智拳印推定)毘慮遮那仏の作例は新羅時代の「華厳経変相図J(754)と知られている。しかし韓国では独尊像としては8世紀の石南寺(766)の尊像を始め、智拳印の如来形昆慮遮那が主流となる。かかる尊像の伝統は連綿とつながり、本図の最も重要な根本仏である法身の図像として採択されている(注6)。ただし、本図の中央の報身仏にみられる両手を左右に開く印相の菩薩形尊像は、早くも宋代の杭小l1飛来峯の「華厳仏会像J浮彫(1022)から確認されている。この杭小,,,飛来峯の例を始め、日本の建長寺の南宋の作例など様々な作例があるが、本図のように法身に対する相対的な意味として、「報身」の意味が適用されたことが明らかであ(『華厳経•四諦品4-2』)、「不以相成就得見如束(中略)非以相成就得見如束J(『金-121 -
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