鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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゜、つ注(1) 武田和昭「兵庫・十輪寺の五仏尊像図について」(『密教図像』7号,密教図像学会,1990年)、洪潤植「朝鮮初期十輪寺所蔵五仏会相図」(『仏教学報』29輯,仏教文化研究院,1992年)(2) 前掲,武田和昭,13■14頁(4) 2000年度から行い始めた日本所在朝鮮前期仏画の実地調査の結果、次のような3期でこの時代の作品が分類できた。第1期(14C末〜15C初)高麗様式の踏襲期、第2期(15C中〜16C初)高麗様式から脱皮、「朝鮮」といえる新様式の成立期、第3期(16c中〜16C末)文定王后の庇護下、再び復活した好仏策時期の様式。(3) 前掲,洪潤植,408頁会通するのには華厳の原理が必要であり、その実践的な面貌としては禅の実修が必要であった。」という李箕永氏の論意が注目に値する(注9)。かかる禅宗の仏身観としても定着した華厳の口身仏身観は、朝鮮時代の仏身観に大きな影響力を及ぼすようになるが、このような包容主義あるいは会通の原理が本図にも表現され、その図像の組み合わせに影響を及ほしたと考えられる。これと関わるより具体的な思想的背景とその根拠となる出典などは、紙面の関係上省略し、直接造形とかかわる事例に入りたいと思う。それでは、本図のように三身仏が造形化されたのはいつからであろうか。まず関連記録を求めてみると、「金剛山長安寺中興碑」(『東文選(巻118)』)に記される「像説則有昆慮遮那左右慮舎那釈迦(中略)居海蔵之宮皆極基荘厳」という記録により、少なくとも14世紀中葉には三身仏の存在が知られていたと推定されている(注10)。ところが現存作例としては本図の例が、管見によれば、最初だと思われる。周知のように朝鮮後期には三身仏像と三身仏図が盛行する。本図は、このような朝鮮後期の図像学的現象の淵源において、その糸口を提供する唯一の朝鮮前期の先駆作として、その価値が極めて重要だといえよう。ちなみに、本図に現れる菩薩形慮舎那仏形の尊像は、さきに言及した掛仏のみならず、後期の華厳頓や八相図などにも釈迦の説法場面と関連し、その姿がよく見て取れる。三身仏に阿弥陀と薬師が加えられ、本図のように五仏の組み合わせをみせる作例は希であるが、仏画としては七長寺蔵の例〔図12〕がある。彫刻像の例としては有名な金山寺の例〔図13〕がある。金絃竣氏はかかる現象について「薬師殿と梃楽殿などに安置されている韓国で最も重く信奉される仏菩薩たちを、大寂光殿の一つの場に包播した形で、仏教信仰の曼荼羅的な構造が窺える」と述べている(注11)。つまり、本図にもその華厳融合の原理が、図像学的造形原理としても適用されているといえよ-124 -

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