鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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月7日に一周忌斎会がおこなわれたと論じたのである。またこの印法は、日々の阿弥陀仏への供養に際し、数珠を用いて阿弥陀呪を誦すことによって、祈者の滅罪と命終ののちの浄土往生を可能にするとも説かれる。このように阿弥陀仏輪印法は、一般には変化観音像や七仏薬師像等の雑密像に対して祈られる転病延寿や、浄土往生を目的とする阿弥陀呪の実践を重んじており、それゆえ阿弥陀仏輪印を結ぶ西の間阿弥陀像は、雑密的な阿弥陀仏輪印法を修する目的で造立されたと考えるのが自然である。したがって西の間像に限らず、奈良時代につくられた『陀羅尼集経』所説の説法印阿弥陀像はもともと雑密像、あるいは雑密化した阿弥陀信仰を背景とする像として、病気平癒や命終ののちの浄土往生を願ってつくられた可能性が高いのである。2、法華寺阿弥陀浄土院の造営奈良時代の貴顕による阿弥陀如来造像を考察するうえできわめて重要なのは、光明皇太后の阿弥陀信仰を背景とする法華寺阿弥陀浄土院の造営である。この法華寺阿弥陀浄土院については、『続日本紀』天平宝字5年(761)6月7日条に「六月庚申。設皇太后周忌斎於阿弥陀浄土院。其院者在法華寺内西南隅。為設忌斎所造也。」とあり、この記述によると、同院は天平宝字5年6月7日の光明皇太后一周忌斎会のために、法華寺の西南隅に造営されたことになる。だが福山敏男氏は、正倉院文書所収の「造金堂所解」や「作西院所解」等、一連の造営文書を法華寺造営に関わる文書として整理検討し、天平宝字3年(759)5月頃から翌年12月頃にかけて金堂の造営をおこなった造金棠所と作西院所は同一実態であり、西院を法華寺西南隅の阿弥陀浄土院、また金堂を西院の金堂、つまり阿弥陀浄土院の金堂に比定した(注7)。そこで同氏は阿弥陀浄士院の発願者は光明皇太后で、皇太后生前の天平宝字3年に着工、翌年6月7日の皇太后没後も造営を継続し、完成後は皇太后追善の場として、天平宝字5年6しかしながら上記の福山説に対して、阿弥陀浄土院は光明皇太后の没後に発願造営されたという黒田洋子氏の反論がある(注8)。黒田氏は造金堂所と作西院所を同一実態とみる福山氏の見解に従いながらも、作西院所の西院とは阿弥陀浄土院ではなく法華寺全体をさす名称で、これにより作金堂所の金堂とは法華寺中心伽藍の金堂のことであると解釈した。つまり黒田氏によると、福山氏が正倉院文書より整理した「造金堂所解」などの一連の法華寺造営文書は、阿弥陀浄士院ではなく、西院すなわち法華寺の金堂の造営に関わる文書で、造金堂所は法華寺金棠の造営をおこなうための機関にほかならないというのである。また同氏は発掘調査によって明らかにされた法華-130 -

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