寺金堂の規模と構造が、9造金堂所解」から復元される仏堂のそれと一致する点にも注目し、同時期に2つもの大規模な堂舎を建立したとは考え難いと主張した。このような黒田説は渡辺晃宏氏や山下有美氏らによって支持され、最近では天平宝字3年かで、阿弥陀浄土院はようやく光明皇太后没後に、その追善事業として造営を開始し、完成後の天平宝字5年に皇太后一周忌法会がなされたとのみかたが有力視されている(注9)。もっとも山下有美氏は、福山氏や黒田氏が造金堂所と同一実態とみた作西院所は、造金堂所とは別の機関で、すでに天平勝宝7年(755)にその存在が確認される西堂(注10)を拡張整備するために設けられたものとし、西院とは阿弥陀浄土院ではなく主要伽藍の西の区画をさすと推定している(注11)。確かに西南隅に造営された阿弥陀浄土院は西南院とでも称すべきで、主要伽藍の西に造営されたであろう西院は阿弥陀浄土院ではありえない。また同一機関を別名で呼ぶような煩雑な呼称が存在したとみるよりも、山下氏が指摘したように造金堂所は金堂を、作西院所は西院を造営する両者別々の機関とみるほうが自然である。そうすると、「造金堂所解」などが法華寺中心伽藍の金堂に関する文書であったとしても、このことによって阿弥陀浄土院が皇太后没後に造営されたとは断定出来なくなる。主要伽藍の金棠と並行して西院が法華寺内で造営整備されたとすれば、阿弥陀浄土院も同時に造営された可能性もあり、阿弥陀浄土院の造営文書が散逸して今日に伝わっていない状況も想定出来るからである。しかしながら以下に述べるように、一連の法華寺造営文書のうち、「造金堂所解」など造金棠所関係の文書はやはり阿弥陀浄土院金堂の造営に関わる文書であると考えられる。まず、のちに西院へと発展した可能性の高い西棠が、天平勝宝7年(755)の時点ですでに存在していたという事実は重要である。すなわち西堂とは興福寺の西金堂のように、中心となる金堂の西にあってこその名称と思われ、天平勝宝7年における西堂の存在は、金堂を中心とする主要な堂宇が当時すでに完成していたことを暗示している。しかも法華寺は天平勝宝元年(749)には大安寺、薬師寺、興福寺とともに墾田地を一千町と定められており(注12)、すでに天平勝宝元年の時点で法華寺の寺格が大安寺等の国家官寺と同等であったことを考慮すると、国家官寺規模の伽藍の整備は急務であったと推察される。したがって西堂のような付属的な仏堂が先に建立され、それよりかなり後の天平宝字3年頃にようやく金堂が建立されたとは考えがたく、中心伽藍で最も重要な金堂は、天平勝宝元年から西堂の存在が確認される同7年頃までには建立されていた可能性が高いと思われる。ら4年にかけて造営されたのは阿弥陀浄土院の金堂ではなく法華寺中心伽藍の金堂-131 -
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