珠8点が出蔵されている(注15)。阿弥陀仏輪印法における数珠の使用については第以上の検討により、法華寺阿弥陀浄土院は光明皇太后没後に発願されたのではなく、福山氏が正倉院文書によって明らかにしたように、皇太后が天平宝字3年に自ら発願し、直ちに造営が始まったと考えられるのである。3、法華寺阿弥陀浄士院本尊と法隆寺伝法堂西の間阿弥陀如来像法華寺阿弥陀浄土院が光明皇太后によって、天平宝字3年にすでに造営が開始されたとすれば、本尊である阿弥陀像も同院の金堂の着工と同時につくられたと思われる。この阿弥陀像はもとより現存しないが、左右に脇侍像を従え、さらに楽天像二十八躯を伴っていたことが、正倉院文書の記述によって明らかにされている(注13)。なお法華寺には、画像の阿弥陀三尊及び童子像三幅(絹本著色)が伝存しており、亀田孜氏によると、三幅のうち中尊阿弥陀像〔図4Jは阿弥陀浄土院本尊を写した像であるという(注14)。平安・鎌倉期の作とみられるこの画像の具体的な成立時期については諸説あるが、注目すべきは中尊の阿弥陀像が、両手の第一、四指を相捻じる『陀羅尼集経』所説の説法印で描かれている点である。つまり亀田説に従えば、阿弥陀浄土院本尊は『陀羅尼集経』所説の阿弥陀仏輪印法の図像にもとづいて造像されたことになるのである。しかも前章で検討したように、阿弥陀浄土院の造営が光明皇太后在世中に開始されたとすると、同院とその本尊は、発願者である皇太后自身の浄土往生を祈るために造営された可能性が高くなる。したがって以下に述べるように、阿弥陀浄土院本尊は第1章でとりあげた阿弥陀仏輪印法を修するためにつくられたとみられるのである。すなわち阿弥陀浄土院の造営が始まった天平宝字3年は、光明皇太后が病を得た次の年に当たり、正倉院文書「献物出用帳」によると、同年の12月26日に正倉院より数1章で述べた通りであり、また皇太后は天平13年(741)創始の阿弥陀棠(後の東大寺阿弥陀堂)における阿弥陀悔過会でも称名念仏のために数珠を使用したと思われる(注16)。よって天平宝字3年の数珠8点の出蔵も、皇太后の阿弥陀信仰に関連する可能性が高く、しかもこの時の出蔵が皇太后の病気に関わるとの見解(注17)に従えば、8点の数珠は皇太后自身の病気平癒、ならびに浄土往生を祈る阿弥陀仏輪印法のために用いられたと推察されよう。またこの数珠出蔵の3日前に当たる12月23日に、皇太后よって法華寺に金版が奉納されていることから(注18)、数珠も法華寺内での仏事に深く関わったとみられる。したがって先の亀田氏の仮説は有力であり、同年に制作が開始された阿弥陀浄土院本尊も阿弥陀仏輪印法を修するために、『陀羅尼集経』所-132 -
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