説の図像にもとづいてつくられた可能性が高いのである。ところで数珠の出蔵より数ヵ月後の翌天平宝字4年(760)3月13日、皇太后は二度目の病を得、同年6月7日に没するが、その間の4月26日に『法華経』の書写に併せて阿弥陀像が制作されている(注19)。おそらくこの時の造像は、女人の阿弥陀浄土往生を説く『法華経』「薬王菩薩本事品」によるものと思われ、同じ女人往生を説く点で同経と共通する『陀羅尼集経』「阿弥陀仏大思惟経」所説の説法印阿弥陀図像が採用されたであろう(注20)。したがってこの『法華経』による阿弥陀造像は、法華寺での阿弥陀浄土院本尊造立に伴って宮廷でなされたものであり、両者が相互に関連する造像であればこそ、阿弥陀浄土院の造営地が光明皇太后の法華経信仰の場である法華寺に定められた事情も理解出来るのである(注21)。両者はともに『法華経』「薬王菩薩本事品」を背景としつつも、『法華経』が具体的な阿弥陀図像を説かないことにより、同じ女人往生を説く『陀羅尼集経」にその図像の典拠が求められたとみられる。それは当時、『陀羅尼集経』の阿弥陀仏輪印法が、『法華経』「薬王菩薩本事品」による女人往生の具体的な実践法とみなされていたからではなかろうか。以上の考察にもとづいて、改めて法隆寺伝法棠西の間阿弥陀像に注目すると、西の間像は阿弥陀浄土院本尊などの宮廷による阿弥陀造像の動向を背景としながら、これと時を同じくして発願造立された可能性がきわめて高いのである。すなわちそれは、法隆寺東院伽藍が光明皇太后のもうひとつの法華経信仰の場であり、しかも皇太后が伽藍創立の中心人物であったからにほかならない(注22)。もっとも、西の間阿弥陀像は皇太后自身が伝法堂に安置したのではなく、寺家が発願造立したと思われ、具体的には法隆寺僧善堤周辺による造像とみられるのである(注23)。4、法華寺阿弥陀浄士院本尊以後の図像継承法華寺阿弥陀浄士院とその本尊は、光明皇太后自身の病気平癒と浄土往生を祈る目的で造立が開始されたが、天平宝字4年(760)6月7日に皇太后が没すると、造営中の同院は皇太后一周忌斎会の場として造営が継続された。それゆえ翌年6月7日の一周忌斎会をもって、阿弥陀浄土院本尊は皇太后の追善像となり、これにより『陀羅尼集経』所説の阿弥陀図像には亡者の追善という、同経が説かない機能が新たに付加されることになった。この阿弥陀浄土院での皇太后追善斎会は、これより以後毎年忌日より7日間修されたが(注24)、おそらく法会を重ねるごとに、同院本尊は本来の現世利益的な性格よりも追善像的性格を強めたであろうことは想像に難くない。したがって本尊阿弥陀像の図像は、皇太后追善法会に関わる図像として以後継承された可-133 -
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