鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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能性が考えられ、このような光明皇太后御斎会図像にもとづいて興福寺講堂阿弥陀像や広隆寺講堂阿弥陀像が造立されたとする長岡龍作氏の見解(注25)はきわめて有力である。もっとも、法隆寺伝法堂西の間阿弥陀像は大衣のほか、右肩と右腕を覆う内衣(僧祇支)も着用しており、服制の点で一連の御斎会阿弥陀図像による作例とは異なっている。このことから西の間像は、光明皇太后没後の御斎会図像を継承した像ではなく、すでに本研究でも述べたように、御斎会図像成立以前に、『陀羅尼集経』所説の阿弥陀仏輪印法を背景につくられたとみられるのである。これに対して、興福寺講堂阿弥陀像は長岡氏が論じたように、光明皇太后御斎会図像の系譜を引くと考えられる。すなわち興福寺講堂像については、『山階流記』講棠条の記載により、延暦10年(791)に桓武天皇皇后、藤原乙牟漏の一周忌斎会のために造立されたことが知られ、しかもこの阿弥陀像は藤岡穣氏が推定したように、「陀羅尼集経』所説の説法印像であったと思われる(注26)。したがって延暦10年の時点で、『陀羅尼集経』所説の説法印阿弥陀像を御斎会追善像と認識する傾向はかなり強まっていたと推察され、遅くとも奈良時代末には光明皇太后御斎会図像は確立していたであろう。しかしながらその一方でこの図像は、本来の雑密像としてのありかたを失ったわけではなかった。そのことを示す作例として西大寺の伝宝生如来像〔図5〕が挙げられる。本像は西大寺の塔内部に安置されたとみられる塔本四仏のひとつで、『陀羅尼集経』所説の説法印を結ぶ点から、阿弥陀像としてつくられたと思われる(注27)。しかも本像を含めた塔本四仏は宝亀11年(780)の『西大寺資財流記帳』中に記載がなく、その制作時期は延暦期(782■806)とみられており(注28)、また西大寺四王堂安置の諸像の大部分が『金光明最勝王経』に依拠するとの指摘に従えば(注29)、この四仏もまた同経所説の四仏(阿悶・宝生・無量寿・天鼓音)である可能性が高い。そうすると仏塔の四面に安置するために制作された塔本四仏のうちで、阿弥陀像のみが一故人の追善という、特別な位置付けで祀られたとは考えがたい。瀬山里志氏は、西大寺の資財帳が記す薬師金堂の孔雀明玉菩薩像や四王棠の火頭菩薩像などを『陀羅尼集経』による造像と推定したが(注30)、すでに諸先学が指摘してきたように、確かに雑密経典による尊像の造立は、奈良末から平安初期にかかる西大寺の造仏を特色付けている(注31)。したがって塔本四仏の阿弥陀像に『陀羅尼集経』所説の説法印図像が採用されたのは、かかる雑密造像を背景とするものであり、それゆえ興福寺講堂阿弥陀像とほぼ同じ時期に、『陀羅尼集経』所説の説法印像を雑密像とみなす造像があったことは、ほぼ明らかと思われる。なお西大寺像が興福寺講堂阿弥陀像と同時期の造像になるとすれば、御斎会阿弥陀-134 -

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