鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
144/598

像である輿福寺講堂像にも、雑密像としての機能が期待された可能性が考えられる。すなわち延暦10年に興福寺像が安置される以前、すでに講堂には本尊として、天平18年(746)造立の不空覇索観音像が藤原房前夫人、無漏女王の追善像として祀られていた(注32)。この像はやがて延暦10年に、乙牟漏追善の阿弥陀像が講棠に安置されるにおよんで、本尊の交替を余儀なくされるが、かかる本尊交替には政治的な力関係が作用したと思われる(注33)。しかし経典的な解釈では、観音は阿弥陀の補処の菩薩であり、また観音の住所を西方極楽世界に求め、観音を阿弥陀の脇侍として重視する記述がすでに光明皇太后による東大寺大仏殿の西曼荼羅(不空羅索観音曼荼羅)の銘文にみられることから(注34)、本尊交替に際しては、このような不空羅索観音と阿弥陀との繋がりも考慮されたと考えられる。しかも旧本尊が雑密系の不空開索観音像であったことからすると、あるいは新本尊の阿弥陀像も雑密像と認識されたのではなかろうか。また旧本尊は『山階流記』講堂条の「或記」の記載から、もともと無漏女王が天平17年(745)に自身の病気に際して発願し、その没後に完成したことが知られ、先の法華寺阿弥陀浄土院本尊とほぼ同じ経緯が確認出来る。そうするとあるいは新本尊の阿弥陀像にも、転病延寿と死後の浄土往生が願われた可能性が考えられるのである。結びかつて井上光貞氏は、奈良時代における貴顕の阿弥陀信仰について、亡者の追善のみを祈る土俗的な信仰に過ぎなかったと論じたが(注35)、光明皇太后の周辺で成立した『陀羅尼集経』所説の説法印阿弥陀像はもともと、発願者の病気平癒と死後の浄上往生を目的としてつくられたのである。この本研究での私見はまた、橘夫人念持仏と伝える法隆寺大宝蔵院百済観音棠の銅造阿弥陀三尊像が、橘三千代自身の浄士往生を析るための像で、このような三千代の信仰が娘の光明皇后の信仰に影響したという、岩佐光晴氏の説(注36)に繋がるものである。つまり、光明皇太后晩年の阿弥陀造像は、三千代の阿弥陀信仰の延長上でなされたのであり、阿弥陀浄土院本尊が『陀羅尼集経』所説の阿弥陀因像に拠ったのは、三千代から受け継いだ自己の浄上往生を祈る阿弥陀信仰が、さらに雑密的な変容を遂げた結果と考えられるのである。以上、紙数の都合上、詳細に論じ得なかった箇所もあるが、本研究によって奈良時代の貴顕による阿弥陀造像には、亡者の追善だけではなく、願主の浄土往生への願いがこめられたことがさらに明確になったと思われる。-135 -

元のページ  ../index.html#144

このブックを見る