鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
149/598

⑭ 和装+羅刹女像の図像形成に関する研究—扇面法華経冊子・平家納経を中心に研究者:財団法人大和文華館学芸部部員増記隆介普賢十羅刹女像の成立我が国の天台法華信仰において、『法華経』「普賢菩薩勧発品第二十八」及び『観普賢菩薩行法経』に基づく普賢菩薩造像の濫腸は、これを本尊とする法華三昧法を確立した円仁(794■864)の周辺に求められる(注1)。十世紀から十一世紀前半、呉越国、北宋、高麗等、東アジア各国における天台宗優遇政策は、経典の貸借等を通じて当該期の外交権を掌握した藤原摂関家へと及んだ(注2)。これを背景としだ法華三味法の普及、および法華堂の建立を通じ、普賢菩薩の造像は比叡山内から天皇家周辺、上級貴族層へと拡がった(注3)。寛弘2年(1005)10月、藤原道長(966■1027)は、良房(804■872)以降互代にわたる寺院の建立と法華三昧法の始修を浄妙寺の供養に際し謳い上げた(注4)。十一世紀に入り、我が国における普賢菩薩像に新たな図像が成立する。普賢十羅刹女像がそれであり、その図像は、中国における先行図像に基づき、我が国において形成された可能性が高い(注5)。十一世紀末から十二世紀初期に活躍した第四十六代天台座主・忠尋(1065■1138)の『法華文句要義聞書』第一(大日本仏教全書本)には、「一代経十羅刹云事無之。限此経(=法華経、報告者注)説之。覚大師普賢道場勧請此神。祈行者外護」とある。普賢道場、つまり法華三昧の場において、行法の本尊である普賢菩薩と行者を護る十羅刹女が結びつくものと理解されている。忠尋の説を普賢十羅刹女像の造像史料に照らしてみると、我が国における十羅刹女像の造像記録の初見が、承暦3年(1079)11 月5日の「法成寺塔供養願文」(『本朝続文粋』所収)の再建法成寺釈迦堂に関するものであり、その扉絵に「十六羅漢」や「多聞持国天」と共に「十羅刹」が描かれたことは、行法の場を護る存在として十羅刹女が位置付けられていたことを予想させる。また、現存最古の普賢十羅刹女像の遺例が天永3年(1112)創建の兵庫・鶴林寺太子堂(法華堂)須弥壇四天柱のうち南東、南西両柱に描かれたものであることも想起される。そして、十羅刹女の彫像の例が報告されている事(京都・実光院、山形・本山慈恩寺)をも勘案すると、直接の史料には恵まれないものの、行者を守護すべく十羅刹女が壁扉画もしくは彫像として、法華三昧堂に普賢菩薩と併置されたことが、我が国における普賢十羅刹女像の図像の成立に寄与した可能性は高いと考えられる。以上の前史をうけて、平安時代後期から鎌倉時代にかけて数多くの普賢十羅刹女像-140 -

元のページ  ../index.html#149

このブックを見る