1155)が発願、仁平2年(1152)9月13日、鳥羽院、藤原頼長(1120■56)が臨席し、が描かれたことは、記録の上からも知られ、その現存遺品は二十点余を数える。最古の絹絵の遺例である十二世紀後半の京都・麿山寺本〔図l〕他、その多くは十羅刹女が唐装をなすが、このことは、先に述べた行法の場における守護者としての十羅刹女の出自と関わるであろう。一方で、十羅刹女を「女房装束」の和装で描くものがある(以下、和装本)。和装本の現存作品は、鎌倉時代前半の東京・個人蔵本(益田鈍翁旧蔵、以下、旧益田家本)〔図2〕を最古とし、その他に奈良国立博物館本、静岡・大福寺本、東京芸術大学本、兵庫・福祥寺本が知られる。これらの作品は、いずれも鎌倉時代以降の制作になるが、和装の羅刹女のみを一体ずつ描いたとみられるものに、仁平2年(1152)の制作とされる「扉面法華経冊子」(四天王寺・東京国立博物館)表紙絵〔図3〕、及び長寛2年(1164)頃の「平家納経」(厳島神社)のうち「従地涌出品」〔図4〕「観普賢経J〔図5〕の見返絵があり、羅刹女の「和装化」が十二世紀半ばには既に行なわれていたことが知られる。本稿は、この二つの作例を中心に十羅刹女の和装化の様相について考察を試みるものである。二謂面法華経冊子における羅刹女の和装化現在、大阪・四天王寺(巻一、六、七、無量義経、観普賢経)及び東京国立博物館(巻八)に所蔵される「扇面法華経冊子」のうち、巻ーを除く五帖の表紙には、和装の羅刹女が描かれる(巻ー表紙は後補)。『法華十羅刹法』(大正新修大蔵経二十一)に説かれる持物等から、『法華経』「陀羅尼品」所説の十羅刹女のうち、それぞれ「第六多髪」(巻六)、「第七無厭足」(巻七)、「第八持櫻塔」(巻八)、「第十奪一切衆生精気」(無量義経)、「第九皐諦」(観普賢経)に相当することが判る。「扇面法華経冊子」については、柳澤孝氏により、鳥羽院の皇后高陽院(1095■四天玉寺において行われた舎利会に際し供養された可能性が指摘されている(注6)。また、近年の白畑よし氏の研究によれば、本冊子の扉形料紙に描かれた下絵は、その上に書写された『法華経』の経文の内容を反映し、同時に『万葉集』を中心とした和歌を詠み込んだ「歌絵Jともなる複雑な構造をもつことが指摘されている(注7)。そして、本冊子の表紙に「和装」の羅刹女を描くことには、料紙下絵との統一をはかる意図のあることが想像される。では、和装化は如何にして成ったのか。「扉面法華経冊子」が法華経信仰史、及び絵画史上にもつ意味を考えることから始めたい。「扇面法華経冊子」を構成する要素を大きく規定すると、文字(法華経)、絵(歌絵)、料紙(扇面)の三者となる。十二世紀半ばに至る三者の相関の中に本冊子成立の母胎-141 -
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