鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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を想定したい。絵については、特にそれが歌絵であることを重視し、和歌と法華経の関わりについて確認する。法華経を詠ずる和歌の濫腸は、十一世紀初頭に藤原道長周辺において法華経二十八品を詠じたことにあるとされる(藤原有国「讃法華経二十八品和歌序」、『本朝文粋」所収)(注8)。寛弘9年(1012)には選子内親王『発心和歌集』が成立し、これには、法華経歌=+九首が含まれる。また、源俊頼(1055■1129)『散木奇歌集』には、寛治6年(1092)に没した俊頼母の追善のため『法華経』巻四を自ら書き、「表紙に服なる男のなきたるを書きてあまのむかひたるに、経妙文字より光をささせて尼の頂にかけたるかたはらに、あしでにてかける歌」として「君こふる涙の滝におぼほれてふりさけさけぶ声はきこゆや」(『国歌大観』106散木八四四)があり、十一世紀末には、一品経供養に添える和歌、すなわち一品経和歌の内容が法華経のテキストに代わり、法華経の見返絵に描かれるようになったことが知られる(注9)。『栄花物語』(古典文学大系本)巻第三十二「請合」には、藤原頼通(990■1074)が長元8年(1035)5月に高陽院の自邸で行った法華三十講の法楽としての歌合(「高陽院水閣歌合」)について記される。『左経記』(史料大成本)同年5月16日条には、歌合において十枚の扇に、それぞれの歌の題目をもって絵を描いたことが記される。法華三十講後の法楽という場から、この十枚という数を法華経八巻に開結=経をあわせた十巻を意識したものとみるのは穿ち過ぎであろうか。ここでは、法華経、扇面、歌絵という「扇面法華経冊子」の三要素が比較的近い空間の中にあらわれたことに注意しておきたい。また『栄花物語』巻第二十三「こまくらべの行幸」には、万寿元年(1024)10月、中宮威子が行った多宝塔及び法華経供養の際、道長が十二人の僧に対し「扇、塗骨に紫張りて、さるべき法文を侍従大納言(=藤原行成)書き給へり」という扇を布施としたことが記される。すなわち、『栄花物語』の文意から法華経を記した扇と考えられ、より密接したかたちで法華経と扇面があらわれる。高陽院自身についてみると、『兵範記』(史料大成本)仁平2年(1152)5月29日条に「百味供養」を行い、僧六口にそれぞれ「扇紙廿五枚」を布施としたことが記される。これらにみられる扇(紙)の布施は、既に指摘のあるように永観2年(984)源為憲撰『三宝絵』(平凡社東洋文庫本)「僧宝の二四」に「『正法念経』に云はく、僧をみて扇をほどこして涼しくして経法をよみ誦せしむるは、命終りて風行天にむまる」と述べられる(注10)。これは、般若流支訳『正法念処経』巻第二十三「観天品第六之二」(大正新修大蔵経十七)に説かれるところであり、僧への扇の布施が「風行天」に生まれる善行とされていたことがその背景にある。-142 -

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