以上、限られた史料からではあるが、高陽院による「扇面法華経冊子」の発願、供養には、藤原道長周辺の事績との継承関係があるように思われる。そして、仁平2年9月の彼女の四天王寺参籠が、弟・頼長の執政後、初めての四天王寺参詣であったことを想起する時、藤原摂関家の基となった道長周辺の事績を「扇面法華経冊子」として総合化する意図を看取することもできよう。ここで、頼長が和漢の学に秀で、宋商を通じ漢籍を入手していたことを想起すれば(注11)、北宋・十一世紀の郭若虚『図画見聞誌』巻六や南宋・十□世紀の部椿『画継』巻十に記されるように我が国の厨が「倭扇」として宋において「近歳尤秘惜Jべきものとされたことを彼が知悉していたことも予想される(注12)。「扉面法華経冊子」表紙絵における羅刹女の和装化の背後には、藤原摂関家の事績に基づき成立した「和」の表象を表紙の図柄によって明確化する意図があったものと考えたい。扇面と和装羅刹女との関わりでさらに注目されるのは、旧益田家本に描かれた十羅刹女のうち「第一藍婆」と「第八持環略」が経軌に説かれない扇を持物とすることである。特に前者においては、顔の前で扇を広げ、観る者に隈の存在を印象づける〔図6〕。この扇には、金銀の箔泥で月、雲、水、松が描かれるが、『図画見聞誌』(画史叢書本)の倭扇が「或臨水為金砂灘、(中略)又以銀泥為雲気月色之状Jすものであった事が想起される。旧益田家本の和装羅刹女には、「扇面法華経冊子」のそれと共通する型の使用を指摘でき、平安時代末に遡る祖本の存在が想定される。その扇の文様が十一世紀に記録された倭扇のものであることもこれを裏付けるであろう。平安時代末の和装の羅刹女と扇との結び付きを示すもう一つの例として重視したい。一方、『正法念処経』の扇の布施を善行とする所説を勘案すると、和装の羅刹女が扇を持物とすることには、絵像の制作、供養という、発願者の善行を扇によって画中に象徴的に留める意図のあったことも予想され、画中の羅刹女に発願者の姿を投影するという和装化の別のありようを認め得るように思われる。さらなる考究を期したい。三平家納経における羅刹女の和装化「平家納経」のうち「従地涌出品」及び「観普賢経」の見返しには和装の羅刹女が描かれる。いずれも右手で剣、左手で水瓶を執り、十羅刹女のうち「第五黒歯」をあらわす。何故、一品経の中に繰り返し同一の羅刹女が描かれたのだろうか(注13)。「平家納経」に黒歯のみが描かれることを指摘し、これと興然(1121■1203)『五十巻紗』(『真言宗全書』巻二十九)の所説との関係を指摘されたのは、松下隆章氏である。-143 -
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