鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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となり、高倉天皇が摺写した「大日如来三百六十体十一面観音三百六十体」を厳島社に奉納している(「安元三年御手摺書正身本供養日記」、『神道大系厳島』所収)。伊都伎島神の本地仏を大日如来とする説をめぐっては、さらに興味深い記録がある。承安4年(1174)の「建春門院詣厳島願文」(『本朝文集』巻六十二)には、「夫当社者尋内証者則大日也有便干祈日域之皇胤思外現者亦貴女也無疑子答女人之丹心」とある。すなわち、伊都伎島神の本地(内証)は大日如来であり、それは「貴女」の姿としてあらわれ、女人の祈りを聞き届けるとされている。また、『源平盛衰記』(校註日本文学大系本)礼巻第十七「源中納言侍の夢の事」には「紅の袴著たる女房の、世にもうつくしくおほしける」伊都伎島神の具体的な姿が描かれ、これは、まさに「平家納経」見返絵にあらわされた「黒歯」のイメージに一致する。ここで羅刹女の和装化の問題に戻ると、『五十巻紗』によれば、黒歯は胎蔵界大日如来の変化身とされる。すなわち、黒歯と伊都伎島神は胎蔵界大日如来を仲立ちとして一致し、その伊都伎島神は女房の姿となって示顕する。このように「平家納経」に描かれた黒歯は、伊都伎島神を象徴し、その和装化は女房神としての伊都伎島神像をあらわすために要請されたものとすることができる。そして、見返しに繰り返し黒歯を描く行為は、平家一門の伊都伎島神への帰依を象徴するものであったと考えられる。四羅刹女の変容一結語にかえて一さて、和装本のうち、残る鎌倉時代後期以降に制作された、奈良国立博物館本(福祥寺本と同図様)〔図7〕、大福寺本〔図8〕、東京芸術大学本は、いずれも面貌表現や着衣形式において、いわゆる「宋風」を示す普賢菩薩に和装の十羅刹女を配することを特徴とする。最後に、以上で考察した平安時代末における羅刹女の和装化の様相との関わりにおいて、宋風と和装の併存が意味するところを考え、本稿をまとめたい。先にみたように「扇面法華経冊子」における羅刹女の和装化は、法華経信仰を中心とした天台宗優遇策を対外的に示した藤原摂関家の伝統を「扇面」という和の表象において総合化する意図により行われたものであった。一方「平家納経Jにおける羅刹女の和装化の構造は、羅刹女に我が国の女神のイメージを重ね得ることを後世に示した。近年、佐藤弘夫氏は、平安時代後期の神仏習合における、いわゆる「本地垂迩」の構造について従来の本地としての仏、垂迩としての日本の神という理解に対し、本地を「彼岸の仏」、垂述を「此土の仏、神」とする新たな見解を示している(注16)。具体的には、彼岸の仏をあまねく衆生を救う大乗仏教の理念上での仏、此土の仏神を-145 -

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