鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注(1) 拙稿「東京国立博物館普賢菩薩絵像の図像と表現」『美術史』149、2000年(3) 例えば、天暦3年(949)朱雀院御願醍醐東三昧堂(『醍醐雑事記』)、康保元年(964)村上天(7) 白畑よし『扇面法華経下絵、経文字解』私家版、1989年(2) 上川通夫「一切経と中世の仏教」[年報中世史研究』24、1999年皇御顧多武峯法華堂(『多武峯略記』)、寛和元年(985)呂子内親主御願観音院法華堂等に普賢菩薩像が安置されている。(4) 寛弘2年(1005)10月19日大江匡衡「為左大臣供養浄妙寺願文」、『本朝文粋』(国史大系本)所収。「(前略)我若向後至大位、心事相諧者、争於荘山脚、造一堂、修三昧、福助過去、恢弘方来。(中略)忠仁公始長講会、昭宣公点木幡墓所、貞信公建法性寺修三昧、九条右相府建榜厳院修三昧、先考建法興院修三昧。此外傍親列祖之善根徳本、不遣称計。(中略)造普賢而為刻木拝貌之志、(中略)今日択曜宿、始法華三昧、刻十月定星之期、廻万代不朽之計(後略)」(5) 拙稿「普賢十羅刹女像の成立をめぐる諸問題」『国宝寝覚物語絵巻]大和文華館、2001年(6) 秋山光和・鈴木敬三・柳澤孝『扇面法華経の研究]鹿島出版会、1972年我が国における個別具体的な仏(多くは彫像としてあらわされ、具体的なイメージを伴う著名なもの)、そして、日本各地の神と規定している。この解釈の上に立つと、羅刹女に和のイメージ、さらには日本の女神のイメージを付与することは、十羅刹女を『法華経』の世界から此土の存在に変換する意味をもったと考えられる。ここで、興然『五十巻紗』第十二の冒頭に[或口伝云。法花十人女形。是往古如来也。是此十如来之変化身也」とあることは、十羅刹女が「往古=彼岸Jの如来に対するものであったことを示してはいないだろうか。このように考えると、奈良国立博物館本以下にみられる、一画面中での宋と和の併存は、宋風が彼岸の仏を、そして、和装は此土の羅刹女を象徴する技巧であったと捉えることが許されよう。ここで、十四世紀初頭の「阿弥陀六地蔵十羅刹女像」(京都・西寿寺)〔図9〕において、阿弥陀が画面奥、蓮池を挟んだ対岸に、地蔵が蓮池に配されるのに対し、和装の十羅刹女のみが源信の姉・安養尼とされる尼僧と同じ縁の上にあることは、甚だ象徴的な図様のように思われる。以上、「扇面法華経冊子」、「平家納経」を中心に和装十羅刹女像の成立について概観し、その後の展開についても若干の見通しを述べた。従来指摘のあるように我が国における普賢十羅刹女像の成立、またその和装化の背後に当該期の女性による熱心な法華経信仰があることは言を侯たない。本稿では、作例毎の具体的な様相を考察することによって、十羅刹女の和装化の背後に広がる東アジア世界や我が国の神への信仰との関わりを指摘した。他の作例についてのさらなる考究を通じ、我が国の法華経美術の特質の解明に努めたい。-146 -

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