鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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える。西洋における古典主義が、ひとつの美学上の規範を示すものであったのに対して、日本においては「さまざまな古典」が存在していたという現象じたい、興味深いことであるが、しかもそれらは瀧口が指摘するように、浪漫主義と混滑することによってより複雑な様相を呈していた。これはなぜだろうか。この問題を突き詰めていくと、この時代を語る上での従来の枠組みである「前衛/伝統」という対立項とは違うパースペクテイヴが開けてくるように思われる。冒頭で引用した文章の中で瀧口修造は、古典主義と浪漫主義の併存した具体的な作家や作品を挙げているわけではない。だが、当時の洋画壇を見渡したとき、例えば難波田龍起、山口薫、矢橋六郎、森芳雄といった、自由美術家協会の一部の画家たちにこの傾向を認めることができる〔図l■4〕。当時の日本にあって最もモダニズムの先端にあったこの団体が、同時に古典への関心を併せもっていたことも重要だが、さらに興味深いことに、山口、矢橋らは自由美術家協会の前身である新時代洋画展において、「新浪漫派」と自称していた(注4)。また彼らは展覧会評でも次のように評されている。「難波田龍起はネオ・クラシズムとでも言ひ度い画材である」(注5)。「矢橋君の作品を一種の新しいヘレニスティックの様式として解釈してみたい」(注このように、彼らは題材として古代ギリシア・ローマを思わせるイメージを描いた。もっとも、こうした題材そのものは、1920年代のいわゆる新古典主義の様式の影響を受けた一群の画家たちによって、すでに描かれている。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、戦争による荒廃の後、ダダのような破壊的表現が生まれる一方で、多くの画家たちが「秩序への回帰」へと向かった。その代表がピカソであり、またフォーヴィスムの画家であったドラン、キュビスムの画家であったロートなどである。彼らの動向を、当時フランスに留学した多くの日本人画家(例えば前田寛治、児島善三郎、中野和高、黒田重太郎、伊原宇三郎、鈴木千久馬)が目撃し影響を受けて帰国したのである。彼らによって、裸体もしくは簡素な衣をつけた女性群像をヴォリューム農かに描く、古典古代的なイメージが洋画壇に浸透していった〔図5■ 6〕。黒田重太郎がこの傾向について「宇宙組織(の法則)を表現しやうとする幾何学的構成」(注7)という言葉で説明しているように、彼らにとってヨーロッパの古典を学ぶことは、決1 「古典主義」と「浪漫主義」を近代批判として捉え直す6)。-152 -

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