鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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して回顧や反動ではなかった。むしろきわめて同時代的な問題意識が、彼らを古典に向かわせたといえるだろう。すなわち、本当の意味でのアカデミズムを経験しないまま、微温的な自然描写が主流を占めることになった日本の洋画壇への反省が、1920年代のヨーロッパにおける古典回帰と同調したのである。これに対して、1930年代半ば以降に古代ギリシア・ローマのイメージを描いた画家たちの古典に対する態度は、1920年代の画家たちとはやや異なってみえる。典型的な例が難波田の《アクロポリスの空》〔図1〕である。ここにはヨーロッパの古典が意味するところの明晰さはなく、画面は曖昧で、夢にまどろんでいるかのようである。こうした難波田の独特な「古典」への志向に光を当てたのが、近年の小林俊介による一連の研究である。小林は、難波田のそのまさにまどろむような絵肌づくりに着目し、それが当時としては異例なグレーズ技法(薄く溶いた油絵具を何層も重ね塗りして透明感を出す古典技法)によるものであることから、次のような結論を導き出した。すなわち、難波田は当時の洋画壇の、類廃した都会生活を反映した表層的なイメージの氾濫に反発し、「生の芸術」を回復するために、イメージとしてギリシアを、技法としてグレーズ技法を用いたのだという(注8)。事実、難波田は1937年に次のように書いている。「ギリシャの芸術には今もなほ私達を魅惑する壮麗な夢がある。古代文化の幻影がある。しかしもっとじかに私達を打つて来るものはギリシヤ人の根源に在る旺盛な生命意欲である。生の表現としての芸術の高さである。健康さである。私はギリシヤ彫刻の前に悉く私の病的な思想を捨てた。ギリシヤ彫刻の前で人はデカダンスではあり得ない。否寧ろアポロの如く精神と関体の健康を取戻せよと人は強要されるであらう」(注9)。同様の主張は、山口薫の次のような文章にも認められる。「目標はギリシャ芸術だ。あの宇宙とあの人間味今はひたすらそれを睦めるべきだ。あれが大黒柱であらなければならない。心の支柱のためにも。あの明朗、あの健康、あの愛着、只之をのみ念ずる。問題はそれを如何に活かすべきかだ。少なくとも現実に移して」(注10)。難波田や山口は、現代生活の類廃を批判するために、古代ギリシアの「健康」さを強調して、それへの憧憬を表現しようとした。こうした態度を示したのは、難波田や山口ばかりではない。ほぼ同時期の文学においても、『日本浪曼派』の亀井勝一郎や保田与重郎らによって、近代批判の文脈から古代憧憬が語られているのは注目に値する。『日本浪曼派』が次第に戦争イデオローグとなっていくように、こうした態度は一面-153 _

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