戦時下の日本において古代ギリシャを語ることは、反語をもちいて『いま•ここ』閉塞した「いま•ここ」、つまり昭和戦前期の社会のさまざまな矛盾を抱えた状況を批判するために、反語として古典古代を憧I景する態度こそが「古典主義」と「浪漫ま•ここ』にはない理想郷をもとめる姿勢につらぬかれていたためだろう。(中略)で危うさを含んだものであったが、難波田らも『H本浪漫派』も、発想の出発点として近代批判があったことは強調されてよい。その「近代」の否定的意味合いは、難波田にとってはデカダンスな生活、精神と肉体の不調和という言葉で説明されているが、時代背景を考えるならば、1929年の大恐慌や1933年頃までに弾圧されるプロレタリア芸術運動など、「近代」の先行きが見えにくくなりつつ、時代の閉塞感が増していったことがすぐさま想起される。この点を踏まえて、河田明久はこの時代の古代憧憬の傾向を次のように述べている。「彼らが想い描く古代世界は、どれもみな蜃気楼のように美しく、それでいてどこか{夢げに見える。今日のわれわれが、そこに描き出された『対象』よりもむしろ、対象に注がれる『眼差し』に打たれることが多いのは、当時のギリシャ憧憬が『いを語ることであったと言ってよい」(注11)。この時期の芸術家たちの態度を分析するにあたって、古代ギリシアという「対象」よりも、それに注がれる「眼差し」を重視しようとする河田の見解は示唆に富む。古代ギリシアという「対象」そのものに重心を置けば、「古典主義」のように見えるであろう。だがそれへの「眼差し」、つまり古代ギリシアヘの憧憬は、「浪漫主義」たらざるをえない。この点において、本稿冒頭で引用した瀧口の文章で「芸術史上に対立する二つの大きな潮流」と位置づけられていた古典主義と浪漫主義は、矛盾なくひとつの態度となるのである。2 日本のシュルレアリスムを「古典主義」と「浪漫主義」の混清体として捉え直す主義」の混消を生んだとすれば、この概念を用いて当時の日本におけるシュルレアリスム受容を相対化して考えることができる。当時シュルレアリスムの影響を受けて描かれた作品の多くは、当時から今日に至るまで、サルヴァドール・ダリの表面的模倣と見なされてきた。だが、作品を仔細に検討してみると、ダリに似て見えるのはもっぱら地平線を強調した構図であって、その中に描かれているものは必ずしもダリ的ではなく、むしろしばしば古代のイメージが描かれていることに気づくことになる。しかも、これらの作品が参照する「古代」は、ギリシアだけではなく、巨石文化、初期-154 -
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