ルネサンス、あるいはもっと漠然としたものまで、かなり幅広い。例えば大塚耕二《トリリート》(1937年)(図7〕。[トリリート」とは3つの石という意味で、巨石を積み上げた古代遺跡のことであるが、ここではイギリスのストーン・ヘンジが描かれている。1938年にパリで刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』にも掲載されたこの作品はしかし、シュルレアリスムの非合理の探究というよりも、遥かなものへの憧憬を見る者に強く抱かせる。またギリシア神話を題材としたものとして、小川原脩《男と白鳥》(1941年)〔図8〕がある。本来はレダと白鳥の物語であるべきところだが、裸体のレダを描くことに時局的な制約を感じ、男性の裸体に変えたという。小川原は、ギリシア神話や中世ヨーロッパヘの関心の背景には時局への反発があったと回想している(注12)。他にも古典古代のイメージが描かれる例は数多いが、そもそもダリ自身が、シュルレアリスムの画家であるにもかかわらず、テクニックはきわめて古典的であったことに注意したい。日本でダリが流行した理由のひとつがここにあるように思われる。瀧口修造はこの点について「ダリの古典に対する態度は、明かに復帰ではなくて(またネオークラシックな再認識でもなくて)かのダダ以後のコラアジュ(エルンストらの)の絵画のとった反抗的な態度と同系列に置かるべきものだと思ひます。(中略)だから、ここでは立体派以後の絵画表現を経て、再びレアリスムの手法に帰るといふことは、直ちに言へないと思はれます」(注13)と注意を促しているが、この注意は逆にいえば、当時の画家たちの間でいかにダリの古典的な描写が注目を集めていたかを物語っているといえよう。そしてまた実際に、ダリを「立体派以後の絵画表現を経て、再びレアリスムの手法に帰る」ものと位置づけるような見方も、例えばJ.T.ソビーなどによってなされており、ソビーの著書『AfterPicasso(ピカソ以後)』は、雑誌『アトリエ』に1936年12月号、1937年1月号に=回にわたって翻訳紹介されていた。ソビーは『ピカソ以後』の中で、ピカソのキュビスム以後の□大潮流をネオ・ロマンティシスムとシュルレアリスムだとし、両者が、ピカソによって排除された文学的要素を絵画に復活させたとしている(注14)。このネオ・ロマンティシスムという動向は、今日ではほとんど忘れられているが、同書ではクリスティアン・ベラール、パヴェル・チェリチェフ、ウジェーヌ・ベルマンといった画家が紹介されている。注目すべきは、さきほどシュルレアリスムの影響を受けた画家のひとりとして挙げた小川原脩が、同書に掲載されたベラールおよびチェリチェフの模倣ともいうべき作品を描いていることである〔図9■12〕。もちろん、ここで言いたいのは模倣をあげつらうことではなく、小川原にとってダリとネオ・ロマンティシスムが等価なものであった-155 -
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