380ギルダーと続く。これらが注文であることを証明する記述はないが、このようにて1000デュカートン、すなわち3150ギルダーものさらに高い値段を提示し、彼はまたッセナー伯爵のためには、彼(=ウィレム・ファン・ミーリス)は様々な作品を描いたが、たいてい当世風の題材選択であり、例えば、多種多様な猟鳥、肉、果物、野菜などで一杯の厨房画など、さらには、あらゆる種類の商品などが並ぶ店を描いた作品」であった(注11)。実際、1750年8月19日、このコレクターの没後に行われたコレクションの競売目録には、店舗画、厨房画を含む13点が記載されている〔図1,7-10〕(注12)。ファン・ウァッセナーがウィレム・ファン・ミーリスに支払った作品代金の領収書(注13)によれば、最も早い時期の支払いが1713年の《魚売りのいる台所》〔図7〕と2点の風景画の計900ギルダー、そして1714年の《胡桃をはかる女》の600ギルダー、1717年の《雑貨商》の825ギルダー、1721年の〈猿のいる室内》〔図9〕の年月を経てたびたび画家に高額が支払われたことからしても、コレクターがウィレム・ファン・ミーリスと緊密な関係にあり、何らかの形で注文を与えていたとも想定できる。とくに1721年支払いの作品〔図9〕は、このコレクターの所蔵する17世紀の作品〔図10〕の対となるため、注文による制作であったはずなのである。さて、ファン・ウァッセナーがこうしてウィレム・ファン・ミーリスから作品を購入していた頃、上述したように、ウィレム・ファン・ミーリスにはもう一人のコレクター、ダウの《雑貨商》を所蔵したピーテル・デ・ラ・クールトがいたが、これまでの研究で、同じ画家を支援するこの二人が結び付けられることはなかった。しかし、このダウの〈雑貨商》を遺産相続した息子、アラールト・ファン・デル・フォールトによる1749年作成の絵画目録の記述を見てみると、そこにファン・ウァッセナーの名が登場するのである。ダウの〈雑貨商》は「きわめて高く称賛された」作品としてこう記述される。「1500ギルダーというこの作品の値段は我が父によって見積もられた。我が父のもとには、この作品にその値を払うという芸術愛好家たちが現れた。ウァッセナー、ザイドウェイク伯爵ヨハン・ファン・オブタムは、一度ならず何度も、かつ我が父の逝去後さえも、私に同じ値段を提示した。1746年には私のもとに、ダルジャンソン侯爵のために絵画を買う一人のフランス人が来て、フランス・ファン・ミーリス(注14)の同席のもと、パラダイスと呼ばれる前述の2番目の作品ともに、1000ギニー、または11550ギルダーの値を提示した。」(注15)この記述からわかるのは、ファン・ウァッセナーが一度ならずダウのこの〈雑貨商》をピーテル・デ・ラ・クールトから購入しようと試みながらも失敗しており、さらに彼の没後、作品を相続した息子にまでも商談を持ちかけているということである。-164 -
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