表舞台に登場してくる。すなわち、後6世紀以降、アジャンター後期窟を造営した西ヴァーカータカ朝が崩壊し、デッカン地方一帯が小国に分裂し群雄割拠の時代に再登場をみる。こうした状況の中、6世紀以降から中世までデッカン地方を含む南インドにおいてその覇権を獲得したヒンドゥー王朝の下で、この両ニディ像は王朝の権力誇示のために造営した寺院建築と密接に結びついていく。ここでは後6世紀以降、南インドに君臨した王朝であるデッカン地方の初期西チャールキヤ朝(6世紀前半〜8世紀中頃)とタミル地方のチョーラ朝(9世紀中頃〜13世紀末)の代表的な寺院をそれぞれ取り上げ、パドマニデイ、シャンカニデイの造形と寺院との関係をみていきたい。それでは、まず6世紀前半〜8世紀中頃までデッカン地方に君臨した初期西チャールキャ王朝の寺院造営と両ニディ像の関係についてみたい。初期西チャールキヤ朝時代のニディ像についてはバーダーミの初期の石窟寺院(バーダーミ石窟、アイホーレのラーヴァナ・ファディ窟)に幾つか像例が知られる(注5)。しかし最も王朝の寺院造営と両ニディ像が結びつく遺構として、8世紀前半のパッタダカルのヴィルーパークシャ寺院が挙げられる。これはヴィクラマーデイティャニ世がパッラヴァ朝の首都カーンチープラムを陥落した戦勝記念に妃であるローカマハーデヴィーが造営した寺院であり、まさに当時王朝の権力を誇示する寺院であった(注6)。その中でパドマニデイ、シャンカニディ像は、平面図〔図3〕が示すように前殿(アルダマンダパ)の入口である東側のポーチの入口手前の左右側壁に対面するようにそれぞれ配される〔図4〕。両像ともに伝統的なヤクシャ像にみられるように鼓腹肥満の体躯で、豪華な宝冠、装身具で飾り、建築モティーフのある翁中に外側の方を向き、獅子の台座の上に片膝を立てて表される。特に両者の持物に注目してみると、左像は右手に蓮華の切花を執り、このことからパドマニデイとみられ、一方右像は右手に法螺貝を執ることからシャンカニデイとなる。両者の持物の上部を見ると蓮華、法螺貝ともにその頂きから生じるようにコインを束ねた綱のようなものが背後に表される。この表現からこれらの像が財宝を象徴した造形であることがわかる。前述のアーンドラ地方でみた両ニディ像においては財宝を表す場合、このような表現は取らず、頭頂から生じる形で表されたが〔図2〕、この二つのニディ像では持物から生じるように表され、同様の図像は初期西チャールキャ朝の6世紀頃の石窟寺院であるバーダーミ石窟やアイホーレのラーヴァナ・ファデイ窟の作例に確認され(注7)、デッカン地方南部ではアーンドラ地方とは異なる図像の系譜に属している。またこの東側のポーチは前殿の正面入口にあたり、この二つの-176 -
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