鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
186/598

(1010年に落成)。ニディ像以外にポーチの左右付柱にそれぞれ視棒を持物に執る守門像が配される。このことからパドマニデイ、シャンカニディ像の寺院における機能は一対像として配され、守門の機能を帯びるが、付柱の守門像と機能が重複するため、別の機能が想定される。つまり、持物の蓮華、法螺貝から生じる貨幣の綱は、まさしく財宝を生み出す造形である。そして、前述したようにこの寺院がヴィクラマーデイテイヤニ世の戦勝を記念し、王朝の繁栄を象徴する記念碑的な遺構という性格を鑑みると、この二つのニディ像が単なる寺院の入口に表される守門の機能だけでなく、その像の最大の特徴が財宝を生み出すことにあることから、王朝の守護神として造形化されていると言えよう。次に南インド、タミル地方に9世紀半ば〜13世紀末の400年間に及ぶ覇権を得たチョーラ朝の作例についてみていきたい。ここではチョーラ朝の後期(11世紀初頭〜13世紀末)において権力の誇示として王朝が造営した大型のヒンドゥー寺院の事例をみてみたい。チョーラ朝の後期の大建造物の寺院は小規模な初期のチョーラ朝寺院とは対照をなしている。つまり、チョーラ朝の後期において大建造物の寺院造営は、王が即位し遷都すると、その首都を中心に新たに造営され、王の意志によって新たに造営され、その寺院は地上の権力者以上の権威を王に付する政治的な意図の下で建設された。その代表的な例が1003年にラージャラージャ1世が首都タンジャヴールに造営したラージャラージェーシュヴァラ寺院であり、王朝の権力の象徴的な建造物となったこうしたチョーラ朝後期の王朝の寺院造営において、チョーラ朝のパドマニデイ、シャンカニディ像の作例は12世紀後半にラージャラージャ2世(在位1146■1172)によって造営されたダーラースラムのアイラーヴァテーシュヴァラ(ラージャラージェーシュヴァラ)寺院においてみられる。この寺院もチョーラ朝後期の大規模な寺院にならい、ラージャラージャ2世の遷都した都に造営された。この寺院は二重の周壁(プラーカーラ)に囲まれ、それぞれ楼門(ゴープラム)を有し、現在外側の周壁はその一部と楼門のみが残る。この壮麗な寺院においてパドマニデイ、シャンカニデイ像は3組が確認される。すなわち、外側の周壁の楼門の入口の門(1体欠(注8))と楼門内部の左右の付柱に一組、さらに内側の楼門を抜けて、寺院正面となるムカマンダパ(前殿の手前のマンダパ)の最前列の柱の左右の翁中にそれぞれ確認される。ここで最も状態の良いムカマンダパ前面の左右織中のニディ像は、向かって左像がパドマニデイであり、右像がシャンカニデイである〔因5〕。その両像の像容および図像を確認してみると、ともに二重の蓮華座上に片膝を立てる遊戯坐であり、外側の-177 -

元のページ  ../index.html#186

このブックを見る