注跡付けた。その後、クベーラの谷属たるパドマニデイ、シャンカニデイの像は後6世紀以降、デッカン地方を含む南インドにおいて発展し、特にデッカン、タミル両地方の覇権を得たヒンドゥー王朝が造営した寺院において守護神として受容され、デッカン地方の初期西チャールキヤ朝の8世紀のパッタダカルのヴィルーパークシャ寺院やタミル地方の12世紀のチョーラ朝後期のアイラーヴァテーシュヴァラ寺院においてはその寺院のあり方、つまり王に絶大な権力を付与することと密接に結びつき、パドマニデイ、シャンカニデイの像は単なる守門神、守護神ではなく、その首領であるクベーラの異名とも結びつき、王の権威を宜揚するイメージとして意図され造形化されていることがその図像、配置から明らかとなった。最後にパドマニデイ、シャンカニディ像のスリランカヘの展開を考察したが、その各図像はパドマニデイ、シャンカニデイの人体像の成立をみた南インド、アーンドラ地方の系譜であることが古都アヌラーダプラのトゥーパラーマ仏塔の参道入口のシャンカ像やアバヤギリ仏塔のニディ像とナーガールジュナコンダの作例との比較から明らかとなり、アーンドラ地方の図像伝統が時代の降るヴィジャヤバーフ1世の宮殿の作例にまで根強く残っていくことがその宝冠(蓮華、法螺貝形)や財宝が生じる槍の表現から跡付けられた。以上の研究により、南インドにおけるパドマニデイ、シャンカニディ像の展開をその図像、機能といった面から跡付けることにより、インドからスリランカに至るその成立と展開が明確となり、南インドにおける財宝ヤクシャ像の系譜が王朝の寺院造営と密接に結びつき、展開したことが浮彫りとなり、王朝におけるヤクシャ像の受容の様柑が明らかとなった。(1)肥塚隆•宮治昭綱「世界美術大全集東洋蝙13インド(1)』小学館、2000年、図版11.参Fig. 17 (cave 1), Fig. 37 (Riiva1_1a Phadi Cave, Aihole). 照。(2) 注(1)肥塚隆•宮治昭編、前掲書、図版22参照。(3) Coomai・aswamy, A. K., Yak~as, part II., 2001 (reprint), p. 72. (4) 東ヴァーカータカ朝の遺跡において、ラームテークのケーヴァラ・ナラシンハ寺院、ルドラ・ナラシンハ寺院の門柱装飾にニディ像が確認される。福山泰子「東ヴァーカータカ朝の美術」「芙学美術史論集』第19号、2001年、図9参照。ここではガナ型ヤクシャ像がコインの溢れ出る金袋を肩に担ぐ姿で表される。(5) cf. Tarr, G., "Chronology and Development of Chiilukya Cave Temples," Ars Orienta/is, vol. viii., 1970, -180 -
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