⑱ 1970年代アメリカにおけるマルセル・デュシャンの受容の様態について1910-20年代のデュシャンは、二つの「デュシャン」として読まれた。問題の《階研究者:国立国際美術館研究員平芳幸浩1.序いまだに評価が分かれているにせよ、20世紀の美術の方向性に決定的な役割を果たし、かつ最も難解な作家であると言われているマルセル・デュシャン(1887-1968)についての解釈の方法論、あるいは受容の様態というものは、1913年にニューヨークで開かれたアーモリーショーを舞台として、彼が《階段を降りる裸体No.2》でスキャンダルを巻き起こして以来、時代ごとの美術状況との関連のなかで多様な変遷を辿ってきた。周知の通り、デュシャンは戦後になるまでほとんど自己の作品を公的に発表することなく、アレンズバーグ夫妻やキャサリン・ドライヤーといったパトロンたちとのごく私的なやり取りの中で創作活動を続けてきた。そのため、多くの者たちにとって、デュシャンの作品を実際に目にする機会は非常に限られたものとなっていたのである。それにもかかわらず、あるいは逆にそれゆえにこそ、デュシャンの活動については、表舞台に華々しく登場することはないにせよ、深く浸透するかのように密かな注目を浴び続けてきた。これまで数多くのデュシャン解釈が提示され、言説が紡ぎ出されてきている。それらは、デュシャンの一見矛盾に満ちた多様な活動を調停しようとする試みであったが、同時にそれらは、受容者の思想・立場・文脈・意図のデュシャンヘの投影でもあると考えねばならない。デュシャンほど、その受容言説の振幅の大きい作家もいないであろう。本論の主題である1970年代とりわけコンセプチュアル・アートの文脈においてデュシャンがいかに受容されたかを見る前に、それまでのデュシャン受容がいかなる変転を遂げてきたのかを、ごく簡単に見ておこう。段を降りる裸体No.2》の登場によって、アメリカの美術批評の文脈でキュビスムの画家として位置づけられる一方で、マン・レイなどと共謀して芸術の価値概念を転覆するダダイスト=反芸術家としても読まれた。これは、「画家」としてのデュシャンと「レデイ・メイド」の作家デュシャンとの分裂と言い換えることができる。《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)を未完成のまま制作放棄して以来、チェスに没頭するようになったと考えられていた1930-40年代のデュシャン受容においては、ダダイスムは影を潜めていく。「画家」デュシャンを擁-185 -
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