鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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VS反(あるいは脱)フォーマリズムの抗争と単純化することはできない。なぜならば、2. 1970年代初頭におけるコンセプチュアル・アート受容の状況3)。美術である以上あるいば情報伝達である以上、何らかの形式を持たざるをえなしく見ていくことにしよう。限られた紙幅の中で、コンセプチュアル・アートの各作家の活動についての各論的な批評言説を詳細に分析することは不可能である。それゆえに本論では、「コンセプチュアル・アート」の名の下に括られて論じられることとなった傾向、つまり境界線が必ずしも明確ではないが、「概念」をキータームとして論じることが出来る傾向に向けられた総論的な批評言説を対象とすることとする。それによって、作家個々の指向性の差異はある程度不問にふされることになるが、逆に「コンセプチュアル・アート」という名称が、何を係争点として冠されることになったのかが明確化されるであろう。抽象表現主義も含めて、それ以降ネオ・ダダ、ハプニング、ポップ・アートなどアメリカにおいて美術の新しい潮流が出現した直後に噴出するものは、それ以前の美術に対してその新潮流がいかに異質で、それゆえに批判されるべきものであるかという保守的(反動的)な多くの言説である。では、コンセプチュアル・アートはいかなる点において批判されることとなるのか。コンセプチュアル・アートの異質性は、多言を要するまでもなく、美術の成立基盤を作品形態ではなく、作品の「概念」に置いたことである。それゆえにコンセプチュアル・アートの是非を巡っては、「概念」が中心の問題となるのであるが、特記すべきことは、「概念」そのものの是非が問われるのではなく、「概念」を伝達するメデイアとしての「作品形式」を巡って批判が展開される点である。それをフォーマリズムフォーマリズムはすでに作品形式を支える基盤としての「構想」を認める地点に立っているからである。つまり1970年代初頭にあたっての美術の問題は、「概念」あるいは「構想」を伝達する「形式」はいかなるものでありえるか、だったと言わねばならない。この点に関してコンセプチュアル・アートは批判の的となるのである。コンセプチュアル・アートの擁護者であったジャック・バーナムが言うには、「コンセプチュアル・アートの理想的な媒体はテレパシーである」。そして彼は「非常にしばしば実践は余計なものである」と続ける(注2)。つまり極論としてのコンセプチュアル・アートは、一切の形式をもたない無形の情報伝達を目指すこととなる(注いコンセプチュアル・アートにとって、その形式は障害であり決して十全なもとはなりえない。実は、コンセプチュアル・アートに批判的な立場においても同じ視点が共-187 -

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