3.コンセプチュアル・アートとデュシャン7)、デュシャンのレデイ・メイドは、作品を制作するというステップを有さないがつ。有されている。マックス・コズロフはコンセプチュアル・アートの原理を「哲学的態度を独特な形式よりも優位に置くこと」と規定している。そしてそれゆえに作品形式が美術作品として看取するに十全なものとして機能していないと考える。美的な出会いは、美術作品から刺激されうる誘惑によるもので、それは美術のイデオロギーという幻想に焦点を向けることに取って代わられることはない(注4)。つまりいずれの立場にせよ、「形式」そのものはコンセプチュアル・アートにおいて十全ではありえないのである。この「形式」と「概念」の薗語、コンセプチュアル・アートの是非を巡る調停不可能性が、当時のデュシャン受容の言説に影を投げかけている。そのことを詳しく検討する前に、コンセプチュアル・アートの文脈との直接的な関係性においてデュシャンがどのように記述されているかを簡単に見ておこコンセプチュアル・アートとデュシャンはどのように関係づけられたか、については、おおかたの予想を裏切るものではない。つまり両者を結ぶ線は「レデイ・メイド」の存在によって引かれることになる。山のように存在する言説の中から幾つかの例を挙げておく。現状の実践の古典的な例は、デュシャンの便器である。というのもここにおいては、「生活」という一般的領域にある機能的事物が「芸術」という非機能的な領域に移されているからである。(中略)デュシャンが導入した芸術家と創造との乖離は、創造の包括的問題を、着想と結果的な選択というより根元的なレヴェルで引き起こすこととなった(注5)。デュシャンのレデイ・メイドは名付けの芸術の最もよく知られた例である。便器を芸術と呼ぶデュシャンの試みは、アート・ワールドで最も広範な影響力を持ったものの一つである(注6)。ジョゼフ・コスースも「哲学以後のIによる芸術」の中で言及しているように(注-188 -
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