鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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5.結論にかえて一「概念」と「意味Jな世界観が「概念Jあるいは「意味」として存在し、それが視覚作品として十全に「形式化」されているというわけである。「錬金術師」とは、先のバーナムの言葉によれば、「下級素材を黄金あるいは文化的に金と等しいものに変容させる秘密を知っている人物」である。つまり、ある形式を有した素材から出発し、それを別の形式を有する価値あるものに変容させ、それによってその背後に深遠なる「意味」あるいは「思考体系」を浮かび上がらせることができる人物である。デュシャンを「錬金術師」に「喩える」ことは、デュシャンがどれほど魔術的思考に精通していたかを示すためではなく、芸術作品の形式的側面を捨象して概念を優先させたとされるレデイ・メイドを中心としたデュシャン受容の在り方を逃れて、その作品を形式と概念の結晶として理解するためである。コンセプチュアル・アートの先駆として受容されたデュシャンは、錬金術師として規定されることで、「概念」による「形式」の選択、そして「形式」から「意味」へのフィード・バックという円環的交通が成立している点において、コンセプチュアル・アートとは別の位置に立つことになる。デュシャンの作品の「意味」を解読するという動きは、芸術における「概念」を重視する時代的背景によるところが大きいのは事実であろう。その意味で、作品の意味分析は、コンセプチュアル・アート理解と並行的な視線によるものであると言える。しかしながら、この時期繰り広げられたデュシャン作品の意味論的分析が、作品の形式的側面を眼差すことによっていることには注意しておかなければならない。バーナムによる錬金術的読解を批判する立場で掲載されたウィリス・ドミンゴの論考はその一つの例証である(注15)。ドミンゴの論考は、「デュシャン芸術における意味」というそのタイトルが示す通り、デュシャンの作品の「秘められた」意味を探るものであるが、その中でデュシャンの作品は、「言葉と絵画、絵画とオブジェ等々の間の意味深く高度に構造化された統語論的相互関係」であると語られる(注16)。ここではドミンゴの分析を詳しく紹介する余裕はないが、彼の分析は、錬金術的思考体系から離れて、言語活動と造形活動との連関関係の中から「形式化された意味」を浮かび上がらせようとする。錬金術的思考というものが、厳密なものではなく、かなり俗化したものとして理解されていたことは述べておく必要があるかもしれない。デニス・ヤングは、デュシャンとタキス、ハンス・ハーケ、ジョン・ファン・ソーンの四名を「新錬金術師」とし-191 -

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