鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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は帰国後、「福竜丸の航海」と題して『ハーパース』誌1957年12月号—58年2月号に3⑲ ベン・シャーン「ラッキードラゴン・シリーズ」に関する考察1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁東160kmを航行中の焼津船籍のマグロ漁船•第五福竜丸は、アメリカの水爆ブラボーの爆発実験に遭遇し、23名の乗組員全員研究者:福島県立美術館学芸員荒木康子1.第五福竜丸事件との出会いが死の灰を浴びた。14日未明、漁船は焼津に帰港。16日の読売新聞朝刊で、日本漁船被爆の第一報が報じられる。ニュースは瞬く間に日本中、世界中を駆けめぐった。その後7名が東大病院で、16名が国立東京第一病院で治療を受けていたが、同年9月23日、無線長・久保山愛吉が放射能症による肝臓障害でこの事件初めての犠牲者となった。他の船員たちはいったん退院はしたが、被爆に関連する何らかの疾病によってこれまでに12名が亡くなっている。そしてこの事件は、今年50年を迎えた。アメリカの核物理学者、ラルフ・ラップが夫人とともに来日し、東京や焼津などでほぼ20日間の調査を行ったのは1957年5月(注1)。ラップは第=次世界大戦中の原子爆弾開発計画、いわゆるマンハッタン計画に参加、戦後まもなく国防総省海軍研究本部核物理支所長を務めるなど、米国の核開発事業の上層部で活躍した科学者である。しかし後にそこから退き、人間や杜会に及ぼす核の甚大な影響について科学者の視点から考察するとともに、原子力について素人にもわかりやすく紹介したことでも知られている。57年の来日も、水爆の人体に及ぼす影響を調査するためであった。ラップ回にわたって執筆し、物語風の語り口で核の驚異を広くわかりやすく伝えた(注2)。当時の担当編集者はラッセル・リン。彼はこれに付すイラストレーションの仕事を、以前から仕事上のつきあいのあったベン・シャーンに依頼したのである(注3)。これまで、世の中のさまざまな不正義をテーマとしてきた画家をよく知るリンにとって、この依頼はごく自然な成り行きであっただろう。こうしてシャーンは第五福竜丸事件のテーマに取り組むことになる。その後1960年の日本滞在を経て、61年、ラッキードラゴンをテーマとしたタブローと素描の個展を開催。テンペラおよびグアッシュの作品10点、インク素描16点を発表する(注4)。そして65年、作家リチャード・ハドソンと『クボヤマとラッキードラゴン物語』を出版(注5)。足かけ9年にわたって取り組まれたこれらの仕事は、まさにシャーン晩年の画業を理解する上で欠くことはできない。しかし従来、事件の舞台が日本だったこともあってシャーン研究者の間ではあまり調査が進んでおらず、光-194 -

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